エリート弁護士と婚前同居いたします
「あ、そう。じゃあ、これ渡しておくから」

 どこまでも冷静な彼は、上着の内側に手を入れて名刺入れを取り出した。黒い革製の品の良い名刺入れ。長く綺麗な指が一枚名刺と絆創膏を取り出す。胸元にさしてあったペンでサラサラと何かを書き込み、私の右手を取る。

 ピリ、と一瞬電流が走ったような気がした。反射的に見つめてしまった男性の顔にはなんの表情も浮かんでいない。つかまれた手が熱いのは失礼なことを言われた怒りのせいだろうか。

「あとで連絡して、絶対に」
 上尾さんが先程の言い合いなどなかったかのようにそっと耳元で囁いて、私の目を妖艶な眼差しで射抜く。かさ、と手のひらに載せられた一枚の名刺と絆創膏。

どうして絆創膏?
私の視線での問いに気づいたのか、彼はトントンと長い指で自身の左手の薬指を指さした。反射的に自分の左手薬指を見ると、小さな切り傷ができていた。うっすらと血が滲んでいる。仕事中にうっかり切ってしまったものだ。後で絆創膏を貼ろうと思ってすっかり忘れていた。

「……ありがとうございます」
小さな声でお礼を呟く私に彼はふわりと微笑んだ。その姿がなぜか胸に残った。大事なことをまるで忘れているかのように胸がざわつく。そんなふうに感じるなんてどうかしている。彼が極上の美形だから心が落ち着かなくなっているのだろうか。

「食事中に悪かった」
 彼はスマートな所作で瑠衣ちゃんに謝罪し、貴島先生と何事もなかったかのように店を出て行く。先生も私たちに謝罪をしてくれた。先生が謝る必要なんて何もないのに。さらに先生は店の出口で一旦振り返り、先程と変わらない穏やかな微笑みを浮かべて私たちに手を振ってくれた。彼らの後ろ姿を店内の女性たちが熱っぽい眼差しで見つめていた。

「茜さん! 行きますよ!」
 頼りになる後輩は呆けたままの私を容赦なく促して、店の出口まで引っ張ってくれた。
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