エリート弁護士と婚前同居いたします
「香月?」

 黙り込んだ私を訝しんだのか、彼が私の顔の両側についた手を離した。
 その隙に私はくるっと踵を返す。ガチャンッと派手な音を立て、自分でも驚くほどの素早さで玄関ドアを開け室内に滑り込む。すかさず施錠をしてチェーンもかける。

「ちょっ、おい!」
 一瞬反応の遅れた彼が驚いて声を上げる。
 ドンドンッと玄関ドアを叩く音がするけれど、玄関ドアに背をあずけたまま、私は返事をしなかった。
 話したくない、帰ってほしい。ひたすら願う。
 頬を流れる涙はなんの涙なのかわからない。ただ噛みしめた唇がヒリヒリ痛かった。

 どれぐらいそうしていたんだろう。玄関ドアを叩く音がやみ、人の気配を感じなくなった。ドアスコープを恐る恐る覗きこむと部屋の前には誰もいなかった。
 その時、玄関脇の荷物の隣に置きっぱなしになっていたバッグが小さく振動した。ビクッと肩が跳ねる。

 靴を脱いで室内に入る。そうっとバッグに近付くと振動はすでに止んでいて、スマートフォンがメッセージを受信したのだと気づく。屈んでバッグを拾い上げる。バッグの中から恐々スマートフォンを取りだして、震える手でメッセージアプリを開く。

【ごめん、言い過ぎた】
【一緒に暮らそうって言ったことは本気だから】

 素っ気ない言葉。何がごめん、で何が本気なのか、わからない。
どうしてそんなに私と一緒に暮らそうとするの。お互いのことは何も知らないのに。こんなに拒否しているのに。
 しかもどうして私の個人情報をこんなにも知っているの。

 住んでいる場所も職場も携帯電話も全部知られているなんて、逃げ場所がない。スマートフォンを握りしめたままずるずるとその場に座り込んだ。電気も何もつける気にならなかった。身体に一気に疲労が押し寄せる。

 玄関から真っ直ぐに延びた廊下の先にあるリビング。そこのカーテンの隙間から外の街灯の明かりが微かに漏れている。その光をぼんやりと眺め、怒涛の一日を思い出していた。
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