やさしく包むエメラルド


朝の早い宮前家の人たちはここでも健在で、わたしが目を覚ましたとき、おばさんはすでに朝風呂とお化粧をすべて終えていた。

「朝のお風呂もとってもよかったわ。空気がきれいでね」

何もかもボロボロのわたしは、布団の上で髪をなでつける。

「とりあえず、わたしも入ってきます」

「行ってらっしゃい」

朝の時間帯はさすがに混んでいるかもしれないと思ったけれど、大浴場に向かう気持ちにはなれなかった。
ひとりになりたいというよりも、あそこは啓一郎さんとの思い出ができてしまって、今は辛い。
だけど案の定貸し切り風呂には『使用中』の札がさがっていて、仕方なく踵を返した。

「おはよう」

背後で引き戸の開く音がして、啓一郎さんの声がした。

「おはようございます」

「今空いたからどうぞ」

引き戸を開けたまま、わたしに場所を譲ってくれる。
中から、湿ったあたたかい空気が流れてきて、ほわんと硫黄の匂いがたちこめた。

「ありがとうございます」

啓一郎さんはこくんとうなずいただけで、そのまま行ってしまった。
元々言葉数の少ないひとだから、別に不機嫌というわけでもないのだろう。
以前ゴミ収集所で会ったときと同じ程度だ。
だけど最近は出勤ギリギリまでおしゃべりに付き合ってくれていたし、もう啓一郎さんに無口なイメージはなくなっていたから、今の態度はひどく悲しかった。

「ここ、嫌いになりそう……」

朝の山々に囲まれた翡翠色の温泉は、立ち上る白い湯けむりと相まって女神でも誕生しそうなほどに神秘的なうつくしさだった。
けれど、今はとても楽しむ気持ちになれない。
時間ギリギリまで入って、全裸で外に立っていてもまったく寒くないほどに身体はあたたまったけれど、気持ちは少しも上向かなかった。
脱衣所にある温泉の効能には美肌やリウマチ、腰痛などはあっても、当然「失恋」なんてない。



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