氷室の眠り姫


「もう、名前を呼ぶことさえ許されない……」

もはや役目を終えた紗葉ができることは氷室を守ることだけだ。
紗葉自身の望みなどないも同然だった。

「氷室のことを考えれば、早めの宿下がりもありなのかな?」

ぼんやりと呟いた言葉だったが、翌日にはそれは叶わないものだと思い知らされた。




「……え?」

紗葉の前に現れたのは主上に仕える高官の一人で、後宮に娘を入らせている男だった。

「だから、もっと主上の為の薬を作れと言っている」

「…何故、貴方にそのように命じられなくてはならないのですか?私は主上にお仕えしていますが、主上と爽子様以外に命令をされる覚えはありません」

「……その主上の為を思っての言葉だと何故分からん」

あくまで上から目線での言葉に紗葉はカチンとしながらも、それを言葉には乗せない。

「その主上からのお言葉以外、私が聞く必要はありません」

紗葉は立場的にも主上以外から命令を受ける謂れはないのだ。

しかし、男は小馬鹿にしたようにフンッと笑った。

「…そう、だな。そなたはそうかもな」

その言い方に嫌なものを感じて紗葉は顔をしかめた。

「だが、柊殿はどうかな?」

「……っ!」

この男が柊よりも位が上なのは言われるまでもなく分かっていた。

「そなたならば病を治すこともできるのではないのか?」

「……ご医師からお話は聞いているはずです。あの病を完全に治すことは不可能です」

「余命幾ばくもないと言われた主上をここまで持ち直させたのだ。不可能ではないだろう」

理解しないで言っているのなら無知の一言ですむが、理解した上で言っているのであればかなり悪質だ。

そしてこの男は確実に後者だった。

「己の立場を弁えたのなら、全力で役目を果たせ」

そう言い捨てると、男は紗葉の前から立ち去った。



「…っ、紗葉様!」

ふらり、とよろめいた紗葉を陰で控えていた風音が慌てて支えた。

近くにいた風音には勿論先ほどの会話は聞こえていた。

「紗葉様、どうか主上か爽子様にご相談ください。あれは紛れもなく脅迫です!」

「…そうね。でも無駄よ」

「無駄?」

「彼は具体的に私を脅かすことを言った訳じゃない。それに例え主上が彼に何かしらの罰を与えたとしても彼の行動を止める鎖にはならないわ」

紗葉の言葉の意味が分からずに風音は首を傾げた。

「父様の朝廷での地位はそう高くない。つまり何か嫌がらせを受けてもそれほど影響はないのよ。でも、もし薬師としての立場を貶められたりしたら…」

そうなれば”家“として成り立たなくなる、致命的な傷になってしまう。

「風音、このことは他言無用です」

例え己の力が全て消え去ろうとも、やり遂げなければならない、と紗葉は決意を新たにした。
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