それでも僕らは夢を描く
見知らぬ男性の声がして、私は目を覚ました。
 まず目に入ったのは、真っ白な天井。
 ここはどこだろう。見覚えのない景色だ。
 知らない男性が喋り、次によく知っている女性の声が聞こえてくる。お母さんの声だ。
 首を左に傾けてみると、私が寝ているベッドのすぐ横でお母さんとお父さん、それと白衣を着た男性が会話している光景が見えた。

「命に別状はありません。脳にも異常は見られないので時間の経過とともに目を覚ますでしょう」

 白衣の男性がお母さんたちにそんなことを説明していた。
 それを聞いて、私は自分がどうしてこの場所にいるのかを思い出した。
 そうだ、私は車に轢かれたんだ。
 イヤホンをつけて、スマホ片手に歩くなんて、そりゃあ車に轢かれてもおかしくない。自分自身に呆れてしまう。
 心配そうなお母さんの顔を見ると凄く申し訳ない気持ちになってくる。
 私はこれ以上心配をかけまいと、ゆっくりとベッドから身を起こす。そして努めて平静に、

「おはよう」

 とだけ言った。元気です、平気です、というアピールだ。
 しかし、お母さんはそんな私に目もくれず、お医者さんに尋ねる。

「いつ目覚めるかはわからないんですか……?」

 いや、起きてるじゃん! 今挨拶したよ!
 心の中でそんなツッコミを入れながら、私はラジオ体操のようにできるだけ大振りに両手を振った。
 けれど、反応はなかった。

「すみません。そこまではこちらもわからないんです。ただ、先ほども申し上げましたが脳に異常は見られませんので心配は要らないかと……」

 お母さんのみならず、お父さんもお医者さんも、私をそっちのけで話し込んでいる。新手のいじめですか。
 そりゃあスマホを片手に歩いていた私が悪いと思うよ、ちゃんと反省もしている。だから無視だけはやめて。
 ムキになった私は行儀悪くベッドの上に立ち上がり、最大限に存在をアピールする。
 けれど、やはりと言うべきか、反応はい。
 いくらなんでも酷すぎる。これじゃあ私がひとりで騒いでいる可哀想な子みたいじゃないか。
 耐え切れず、私はお母さんの肩に勢いよく手を置こうとする。
 ――しかし。

「……えっ」

 手を伸ばした私は、思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
 一瞬、何がどうなったのか全くわからなかった。
 頭の中が真っ白になって、思考が追い付かない。
 何秒か経ったあと、私は確かめるように、もう一度お母さんの肩に手を伸ばす。
 そして驚愕した。
 伸ばした腕が、お母さんの肩をすり抜けていたのだ。
 手には何の感覚もなく、まるで煙の中に腕を突っ込んだような状態。
 私は慌てて腕を引っ込めて、手の平をじっと見つめる。
 指はちゃんと五本ついているし、生命線もハッキリ見える。握れば握った感覚があるし、幻でも何でもない。間違いなく私の手だ。
 本当にこの腕が、お母さんの肩をすり抜けたというのだろうか。
 ふと、指と指の隙間から自分の足元が見えた。
 黒い制服のスカートから伸びる自分の脚と、真っ白なベッドのシーツ。そして――

「腕……?」

 そこには管に繋がれた腕があった。どうやら誰かが寝ているらしい。
 指と指の僅かな隙間から部分的に見えた腕は、色が白く、女性のものであることがわかる。
 私は疑問に思った。
 ついさっきまで私はここで眠っていたというのに、どうして人が寝ているのだろう。
 私はベッドから退いてすらいないのだから、誰もここに寝そべることはできないはずだ。
 じゃあ、この腕は誰の腕?
 私は、管が繋がれた腕から視線をずらしていく。
 肘、上腕、肩、首と、辿るように視線を移動させ、そしてその顔を見る。
 ……何となく、予想はしていた。
 話しかけても誰も反応してくれないし、体に触れてもすり抜ける。
 不自然を通り越して不可思議だもの。だから、信じたくなかったというだけで、予想自体はできていた。
 私は、ベッドで眠る私自身の顔を見て、冷や汗をかいた。
 臨死体験、もしくは幽体離脱?
 予想はしていても、理解はしていない。私にはこの状況がまるで理解できなかった。
 ベッドで眠る私は頭に包帯が巻かれている。
 買った覚えのない薄ピンク色の浴衣はいかにも患者らしい印象を与える。
 腕に繋がっている管は点滴用のものだろう。今まで入院した経験が皆無なため、多分という前置きが入るけれど。
 眠っている自分と、こうして困惑している自分の姿を見比べてみると、ますますわからなくなってくる。
 私の恰好はまさしく学校帰りのそれで、包帯や管がついているわけでもなければ入院用の浴衣を着ているわけでもない。
 あまりの状況に気にもならなかったけれど、ベッドの上だというのにローファーも履いている。
 制服も汚れ一つないし、もちろん傷も痛みもない。
 すり傷だらけで眠る私と、幽霊みたいな私。
 どちらが本体かと問われれば自信を持って前者だと答えられる。
 段々と自分が置かれている状況が飲みこめてきた。
 そして、飲みこめてしまったがために、焦る。
 私はこれからどうなってしまうんだろう?
 お母さんもお父さんもお医者さんも、私が見えていない。声すら聞こえていない。
 この様子だと他の人も同様に、私のことを認識できないと思う。
 だからこそ、並々ならぬ焦燥感に襲われる。
 もしずっとこの状態が続いたら、そう考えるだけで背筋が凍り付く。
 誰にも気付かれず、幽霊のように独り寂しく彷徨い続ける人生。そんなのは絶対に勘弁だ。
 私は縋り付くように、もう一度お母さんに話しかけた。
 でも、やはり返事はない。
 お父さんもお医者さんも、誰一人として私に気付かない。
 話をすることも、触ることもできず、自分がここにいるんだと気付いてもらうことすらできない。
 理解すればするほど、自分の置かれた状況が恐ろしくなる。
 私は不安と恐怖のあまり病室を飛び出した。
 誰も私が見えていないという孤独な空間に耐えられなくなったのだ。
 病院の廊下を全速力で駆け抜ける。
 普通なら迷惑でしかないこの行為も、今は誰も咎めることはない。入院している患者さんも、付き添う看 護婦さんも、みんな私が見えないのだから。
 走れば走るほど、人とすれ違えばすれ違うほど、誰にも認知されない自分が恐ろしくなる。
 そして廊下の角を曲がった時に、友達とぶつかった。
 いや、ぶつからなかった。ぶつかれなかった。
 衝撃に備えてとっさに身を構えたのだけど、そんな必要はなく、私の体はあっけなく友達の体をすり抜けてしまった。
 勢い余って地面に激突し、体中に鈍い痛みが走る。
 けれどそんなことはどうでもよかった。
 私はすぐに起き上がり、友人を見やる。
 さっき私をカラオケに誘ってくれた子だ。普段からよく話しかけてくれるし、私にとってかけがえのない友達の一人。
 どうやらお見舞いに来てくれているらしい。
 この子なら、私のことが見えるかもしれない。もし見えなくても声くらいなら聞こえるかもしれない。
 そんな淡い希望を胸に、声をかけた。
 けれど友達は振り向きもせず、ただ無言で病院の廊下を歩いていく。
 私は絶望した。
 この子でさえ、私の存在に気付いてくれない。
 本当はわかっていた。きっと私の期待は裏切られるだろうと。
 すり抜けた時点で、無駄だと認めていればよかった。声をかけるだけ無駄だと諦めていればよかった。
 そうすれば、私を無視して歩いていくこの子の背中をこんなに暗い気持ちで見つめることもなかったのに。
 もう、うんざりだ。
 誰かとすれ違うたびに、すり抜けるたびに、私は孤独と絶望に苛まれる。
 人のいる場所はダメだ。そう思った。
 私は急いで病院を抜け出し、全力で駆ける。
 走って走って、呼吸を整えることさえなくひたすら走り続けた。
 途中、何度も車に轢かれそうになったけれど、やはり私をすり抜けた。
 もう限界だった。とにかく人がいるところに居たくない。
 疲れ果てた私が見つけたのは、小さな山だった。
 山と言っても本当に小さな山で、傾斜も緩やかだし、どちらかと言えば森のような感覚に近い。
 ここなら迷う心配も、人と出会う心配もない。
 私はすぐに山に入り、手ごろな切り株に腰掛ける。

「これからどうなるんだろう」

 漠然とした不安が募り、そんなことを呟いた。
 意味のない独り言だとわかってはいるけれど、吐き出すように何かを言わなければ不安で気が狂ってしまいそうだった。
 人がいる場所に行けば孤独感に襲われ、人を避ければ不安感に襲われる。
 さっきまでは走っていたおかげで誤魔化せていた思考も、今はもう誤魔化せない。
 安心するためにここに来たのに、これでは本末転倒だ。
 ――怖い。
 お医者さんはいずれ目を覚ますと言っていたけれど、それはいつ?
 病室で見た私の顔は、すり傷のような小さな傷はあっても大きな怪我はなかった。
 腕が変な方向に曲がっていることもなければ顔がへこんでいることもない。
 じゃあ、何で目覚めないの?
 木々の隙間から見える青い空を見上げて、私は大きくため息をついた。最近ため息ばかりをついている気がする。
 町とは比較にならないほどうるさい蝉の声も、今となっては寂しく感じられる。
 この際虫でも動物でもいいからお話したい気分だ。
 眠っている時に耳元で不快な羽音を出す蚊も、今はどこ吹く風だ。
 虫にさえないものとして扱われる悲しさは尋常ではない。
 犬でも猫でも誰でもいい。誰か私に気付いて。

「寂しい……」

 切り株の上で膝を抱え、顔を押し付ける。
 目の奥が熱い。あぁ、涙が出ちゃうやつだこれ。
 でも別にいいや、泣いたって喚いたって、誰も私に気付かないんだから。
 悲しいまま泣いて怖いまま震えて、独りでここに座っていればいい。
 もう諦めよう。自暴自棄にも近い感覚だけど、そう思えてきた。
 ――その時だった。

「お困りかな?」

 すぐ近くから、そんな声がした。
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