ハイド・アンド・シーク


さらさらと指で彼の名前をなぞっていたら、不意に聞き覚えのある低い声がすぐそばで聞こえた。


「森村さん?」


考えるよりも先に、顔を上げる。
こんなところで名前を呼ばれるなんて、しかもこの声は間違えるわけのない人だった。

小さな丸いテーブルを挟んだ向こうに、今まさに私が指でなぞっていた張本人が立っていた。彼は彼で、少しだけ驚いたような顔をして。


「あ、有沢主任!!おはようございます!!」


即座に手にしていた資料を勢いよく閉じて、うるさく鳴り出した心臓を力の限りにおさえつける。
まさか、今さっきの私の行動を見ていたとは思えないけれど、見ていないとも確信は出来なかった。あぁ、穴があったら飛び込みたい!

有沢主任は、朝だというのにすでにいつも会社で見るようなオンモードだった。その微笑みが私には眩しい。


「おはようございます。まさかここに森村さんがいるとは。よく来るの?」

「いえっ。たまたま早起きしてしまって……時間つぶしに」

「時間つぶしのわりには、ちゃんと仕事してたんじゃないの?」


彼の視線が私の手元に移る。
資料を見ているのは分かってるが、ささくれだらけの自分の指が見えてしまったら恥ずかしいので、慌てて手を引っ込めた。

ハンドクリームくらい、毎日塗っておけばよかった。女子力の低い自分を呪う。

資料をさりげなくバッグに突っ込みながら、


「仕事なんてそんな。コンペのお手伝いに参加するのが初めてなので、少しくらいは読んでおかなくちゃっていうそれだけの気持ちで……」


と、能力のなさを露呈するようなことを言ってしまった。
主任なら、おそらくこの中身はすべて把握しているだろうから。

彼は私に許可をとるでもなく普通に自然に向かいのイスに腰かけると、湯気がたちのぼる熱そうなブラックのコーヒーを一口飲んだ。
その様子を、ボーッとした頭で眺める。

今日だけで一年の運を使い果たしてないかな。
偶然会えただけじゃなく、相席してるなんて夢みたい。いや、夢?

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