光のもとでⅡ+

Side 司 10話

 俺は翠に置いていかれたまま寝室の片隅でぼーっとしていた。
 今ごろあの長い髪をどんなふうに洗っているのか。華奢な身体のどこから洗うのか。
 そんな些細なことまで知りたいと思う自分はおかしいのだろうか。
 否――ただ知りたいというよりは、裸の翠の艶かしい姿を見ていたかっただけかもしれない。
 自分に抱かれるためだけに身体を磨き上げる姿を。
 でも、俺に見られたままじゃ恥ずかしがって、いつものようには洗えなかったかもしれないし、何よりバスタブに浸かって待っている俺がのぼせていた気がしなくもない。
「それを思えば正解だったのか……?」
 でもいつかは、最初から一緒に入れるようになりたいものだ。
 あの恥ずかしがり屋相手では、いつになったら叶うのかわからない願望だけれど。
 スマホのタイマーを起動すると、ついでに翠のバイタル設定を変えてベッドに横になる。
 目を瞑れば裸の翠が身体を洗っているところしか想像できないわけで……。
 末期だな、と思いながら数十分を過ごすと、スマホが三十分経過したことを知らせた。
 少しの反動をつけて起き上がり、キッチンでロックグラスを用意してからバスルームへ向かう。と、脱衣所で身につけていたものを手早く脱ぎ去り、バスルームのドアをノックした。
「三十分経過したんだけど、入っていいの?」
「ちょっと待ってっ」
 バスルーム内がおぼろげに見えるドア越しに、翠が慌ててバスタブに浸かるのが見えた。
 この場合、予告なしにドアを開けるのが正解だったんじゃないか、などと多少の後悔をしていると、
「だ、大丈夫……」
 とても小さな声が聞こえてきた。
 俺が入室すると、こちらを向いた翠と目が合い、翠は「ごめんっ」と言って壁側を向く。
 なんだかな……。
「俺は見られても別に困らないから、そんな気を使ってくれなくても大丈夫なんだけど……」
「だって、見るのも恥ずかしいものっ」
 すでにあんなことやこんなことを何度かした仲だというのにこいつは……。
 でも、顔を真っ赤にして恥ずかしがる姿がかわいいとも思うわけで、なんら問題はない。
 翠の頭に軽く手を乗せ、
「なんなら照明落とすし」
「でもっ――」
「その代わり、ウォーターキャンドル点けてもいい?」
 翠は壁側を向いたまま、小さくコクリと頷いた。
 俺は一度バスルームから出て、あらかじめ用意していたロックグラスに水を張り、キャンドルを浮かべ火を点けて戻る。
 それをバスタブの足側の縁へ置くと、バスルームの照明を完全に落とした。
「ありがとう……」
「どういたしまして。翠は深呼吸でもして星でも見てれば?」
「ん……」
 頭を洗いながら思う。
 本当は、後ろから抱きしめるようにしてバスタブに浸かりたかったけれど、これは無理か……?
 現状況でこれだけ恥ずかしがっているのだ。今精神的に追い詰めて風呂上りに何もできなくなるくらいなら、今は我慢すべき……。
 そうは思いつつも、後ろから抱きしめ胸に触れたいという願望を捨てきれない。
 否――今日だけじゃない。
 明日だって一緒に風呂に入る機会は得られるはず。
 そんなことを黙々と考えていると、
「えっ、頭洗うのもう終わりっ!?」
 その質問に翠の方を見ると、翠はしっかり壁際を向いていた。決してこちらをチラ見したとかそういう気配は感じられなかった。
「背中向けられたままたずねられるの、違和感……っていうか、音だけで判断するってどれだけマニアックなの?」
「だってっ――」
「俺と翠の髪の長さ、どのくらい違うと思ってる? ちなみに、翠は髪をショートにしたことは?」
「……えと、ない……かな。物心ついたころには髪の毛長かったから……」
「なるほど……。俺くらいの長さなら五分もかからない」
「そうなのね……」
 その言葉を最後に、翠はまた黙り込んだ。
 その華奢な背中を見ながら、俺は身悶えしたい衝動に駆られていた。
 濡れた髪をアップにしたうなじって、なんであんなに色っぽく見えるんだろう……。
 雑念を払うことできずに全身をくまなく洗い、すべての泡を流し去ると、俺は野望を叶えるべく声をかけることにした。
「バスタブに入りたいんだけど、少しキャンドルの方に身を寄せて」
「は、はいっ」
 翠は慌ててキャンドル近くまで移動した。
「移動しすぎ」
 俺は心の中でため息をつく。
 ここまで構えている翠を後ろから抱きしめるなどしたら、リラックスには程遠く、緊張のあまりすぐにのぼせてしまいそうだ。
 ここは我慢するしかないかな。
 俺は翠の肩を掴み引き寄せる。
「この広さならふたり並んで入れるだろ」
 仕方ないからそれで我慢する。
 翠は移動する際、こちらをちらっと見て目を見開いた。
「髪型が……」
 髪型……?
 髪を洗ったあとは邪魔で後ろへ流しているが、それが何……?
 翠はクスリと笑い、
「そういう髪型していると、本当に涼先生とそっくり」
 また父さんかよ……。
 俺はきれいにまとまっていた髪をくしゃくしゃに乱す。すると、
「どうして? 似合ってるのに……」
「父さんに似てるって言われるのはちょっと……」
「いやなの? あんなに格好いいお父さんなのだから、似てるって言われてもいい気がするのに。湊先生もそっくりよね? 真白さんもきれいだし、楓先生も格好いいし、ツカサの家族は見ていて目の保養し放題」
 緊張が少し解れたのだろうか。
 無邪気に笑う翠を見て、少しほっとする。けれど翠は、身体を丸め膝を抱えるような体制で座っていた。それが気になって、
「膝抱えてないで脚伸ばしたら? 俺の脚が全部伸ばせるくらいには広いバスタブなわけだし」
「うん……」
 翠はゆっくりと、どこか心許なさそうに身体を解き始める。
 それでも膨大な泡が邪魔で、鎖骨から下の翠の身体が見えることはない。
 翠の心臓のことを考えて、お湯は胸下の位置までしか入れてないというのに……。
 予想以上に泡が邪魔……。
 でも、これだけ泡立ったものをもうどうすることもできはしない。
 俺は諦めて体勢を変えることにした。
 背中に当たるバスタブに沿ってゆっくり身を沈めると、より星空が見やすい体勢となる。
「バスタブのこっち側、程よく傾斜がついてるから翠も背中預けてみれば? この体勢だと空を見るのもつらくない」
 翠は今気づいたかのように、バスタブに身を預け、同じように身体を沈ませた。
「あ……本当だ」
「まさかバスタブに浸かりながら、星を見られるとは思ってなかった」
「それは私もだよ」
 これは口頭で伝えるより体験させたくなるわけだ。
 そんなことを思っていると、
「確か、楓先生も星が好きなのよね?」
「あぁ」
「なのに、楓先生も知らないの?」
「いや、兄さんたち授かり婚で新婚旅行どころじゃなかっただろ?」
「うん……」
「だから、煌が生まれて少ししてからここに来てる」
「新婚旅行の代わり?」
「そう」
「なのに、ここのこと何も聞いてなかったの?」
「……いつものあのふたりなら、頼んでもいないのにやれなんだと写真を見せてくる。けどここに関しては肩透かしを食らうくらい何も見せてこなくて、ただ、翠と一度行ってみるといい、ってそれだけ言われてた」
「あ……だから、ここに来たの?」
「それもあるけど、もともと星を見せる約束してたし、納涼床を楽しみにしてただろ?」
「うん」
「ま、結果的に、知らずに来てよかったってところかな」
「そうだね。ね、帰ったら、星見荘での楓先生たちの写真や、真白さんたちの写真も見せてもらおう?」
「別にいいけど……」
 すでに俺たちはここを知っているのに、なんで見せてもらう必要がある……?
「俺にはなんの得もないけど、ってニュアンス」
「間違ってない」
「もうっ! 少しくらい周りの人に関心持とうよ!」
「申し訳ないけど、翠だけで手一杯だ」
「すぐそういうこと言うっ」
「本音だけど?」
 真顔で返すと翠は黙ってしまった。
 でも今は、言葉は必要ないかもしれない。
 そのくらいには星空がきれいで、この環境が贅沢なものに思えた。
 願わくば、翠という存在をもう少し確かなものとして感じていたい。
「翠、手……」
「手……?」
 翠は不思議そうな顔で、泡の中から左手を出してくれる。
 俺はその手を掴み、改めてお湯に沈めた。
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