恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
第九章 院長への恋心の代償は犠牲
「すべての患畜の処置が終了した。もう保定はいい」
 だから、ありがとうか。
 院長が患畜をケージに戻しに行ったあいだに、診察台の上を片付けて消毒した。

「外来の準備に行こう」
「はい」

 外来の準備が終わるころ、本当は真面目で律儀な方なのか、初診日以外はきっちりと予約時間ぴったりに来院するノンネのオーナーが来た。

 薬棚の前にいたら、様子を聞いた香さんから、カルテを手渡された。

「今朝の散歩から帰って来たら、前肢の中指の肉球に傷があったそうよ。問診よろしくね」
「はい」

 カルテを持って診察室に入り、池峰さんを診察室に招き入れた。

「こんにちは。今日はノンネちゃんどうなさいましたか」

 と口火を切って、体重と体温を測定しながら様子を聞いていると、香さんの説明通りの言葉が返ってきた。

 カルテに記入して、散歩の途中に傷がつく心当たりがないか質問したら、ないって。

 傷口は、うっすら血が滲んでいて軽く触れると、ノンネが反射的に前肢を引っ込める。痛いよね。

 問診が終わり診察室を出て、待機室の院長に報告すると、じっくりとカルテに目を落とした院長が、地面を足で蹴り回転椅子を回して立ち上がり、診察室に向かうから後ろをついていく。

 ロングのドクターコートの裾をなびかせながら歩く院長が、首だけ下に向けてくるから、伸ばせるだけ首を伸ばして仰ぎ見た。

「ノンネは痛がるんだな? いっしょに入って保定頼む」
「はい」

 診察室に入って来た院長を見る池峰さんの顔が、一瞬嬉しそうに目を輝かせて口角が上がった。

「こんにちは、ノンネちゃんの肉球に傷ですって?」
 池峰さんに話しかけながら、院長が椅子に座った。

 事情を話し始める池峰さんが、とたんに不安げな顔になったから安心させようと、院長と私は笑顔を絶やさずにいる。

「散歩のあとに気づきましたか」
「はい」

「なにか心当たりはないですか。ふだんとは違う道を散歩したとか、散歩中にノンネちゃんが鳴き叫んだとか」
「なかったです」

「ノンネちゃんの傷口を診ますね」
 院長が私の顔を仰ぎ見るから保定した。
「ノンネちゃん、抱っこね。痛いの治してもらおうね」
「ノンネちゃん、ちょっと見せてね」

 ノンネの痛みが少しでも軽減するように、そっと肉球の毛をかき分けて、傷口をじっくり診察している。

 真剣な眼差しは、瞬きさえも惜しいみたい。

「ちょっと我慢してね」
 院長が肉球のあいだを鉗子で掴む。反射反応でノンネがキャンと鳴いて痛がり怒った。

「痛いよね、ごめんね。そんなに睨まないでくれよ。先生の顔を覚えちゃった? 嫌わないでくれよ」

 眉は緊張が緩んだようにがくんと下がって、困ったように苦笑いを浮かべる。

 大好きな動物を治してあげているのに嫌われたくないよね。
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