恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「香さん、取り越し苦労です。私は男の人に誘われることがないですし、男の人といっしょにタクシーに乗るなんて一生ないです」

「と、いうことだそうだ、終了」
「ちょっと待ちなさいよ、あなたね」
 行きかける院長と追おうとする香さんが、私に背中を向けた。

「待ってください」
 上体が反転した、二人の視線を目の中に受けた。
「香さん、私、院長のゆべしで」
「いいから」
 院長に制止された。

「昨日も、ゆべしって。ゆべしがどうかしたの? タクシーに関係ある? どうして、明彦は止めるのよ」

 院長にとって、ゆべしがツボみたいで口角をひくつかせて耐えている。

「なんでも」
 そのまま院長、歩いて行っちゃう。
「なにがおかしいのよ」

「あっ、行かないでください、待ってください。プリン作ったから食べてください、お口に合うかな」
 行きかけた院長が振り向いた。

「ありがとう、いただく。あれから帰って作ったのか?」
 正面に向き直った院長が話しかけてきた。

「はい、簡単に作れるので」
「たいしたもんだ」
 目と目が合った院長が微笑んでくれたから、嬉しくて抑えきれない笑顔が溢れ出した。

「どれ」
 私の手に乗る箱の中身を開けて覗いている。

「プリンも売り物みたいにきれいに作れるんだな、いただきます」
 目尻を下げて、手に持つプリンを眺めて感心してくれた。

「どうぞ、院長に褒めていただけて嬉しいです」
 つい夢中になって、香さんに勧めるのを忘れちゃった。

「香さんもどうぞ」
 振り返ったら、香さんがママみたいに優しい瞳で見つめていた。

「ありがとう、いただくわね」
「院長、変わった食べ方ですね、かき混ぜてジュースにして飲むんですね」

 初めて見る食べ方に驚いて、つい言葉に出してしまったら、香さんが吹き出した。

「失礼しました、実は明彦はね」
「あのマシュマロもおいしかった、このプリンも好きだ」
 言いかける香さんに、院長は上から言葉をかぶせる。不思議な二人のやり取り。

「院長、飲み終わるの早いですね、まだありますよ」
「いや、いい、あとで、いただく。楽しみは、あと、ごちそうさま」

 カタコトでロボットみたいな口調に、また香さんが吹き出す。それを見て、院長が眉をしかめて香さんを睨んだ。

 今日も、こうしてにぎやかな一日が始まる。

「川瀬さんが言ったのとは違う意味で、私は本当に取り越し苦労ってわかったわ。今、これはって、確信したから心から安心できた」

「ん?」
「あなたを守る人がいるってこと」
「香さんと院長です」
 香さんは、ただただ微笑むだけ。
< 163 / 239 >

この作品をシェア

pagetop