恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「ヴァンスから、川瀬を守りたい衝動」

 伏せた瞳に寄り添う、長く濃い睫毛が、頬に幾つもの長い影を描いている。
 照れているみたい、顔は上げずに耳は赤い。

「そろそろ帰ります」
「もう、そんな時間か」

「二人で過ごす時間が経つのは、あっという間ですね」
 寂しさに耐えられず、足もとを見つめた。

「そう寂しがるな、おいで、明日の分まで」
 ぎゅっと、強く長く抱き締めてくれる。
「送るから着替えてくる」

「大丈夫です、ひとりで帰れます」
「川瀬のことが好きだ、だから心配させてくれたっていいだろう」

 髪の毛を撫で、頬にキスして名残惜しそうに私を離した。

 院長の携帯が鳴ると、「失礼」と、一言くれて電話に出ている。

 会話を聞くのは気が引けるし、長引きそうだから、会釈をして背中を向け、その場を離れた。

 と思ったら、長い腕に瞬発的に掴まれた私の体は、目にも止まらぬ速さで、逞しい胸に抱き寄せられて包まれている。

 呆気にとられて、院長の顔を仰ぎ見れば、何事もなく涼しい顔で、相手と話している。

 完全に負けちゃった。院長の背中に腕を回して、しがみついた。

 頭上から降り注ぐ院長の声が、耳もとに直接伝わり、電話の相手と笑うたびに、院長の硬い腹筋が私の体に響く。

 しばらく大好きな院長の胸の中で幸せに浸り、電話の相手には内緒で、院長に抱き締められるスリルに胸がどきどきした。

 院長が力を抜いたから、泣く想いでそっと腕から体を離した。

 “院長は忙しそうですから、私は帰ります”って、メモに書いて院長に見せて、そっとドアを開けて一階に下りた。

 もっと院長といっしょにいたかった。急に抱き寄せたりして、どれだけ私をどきどきさせたら気が済むの?

 また逢えるのに別れを惜しむように、院長の腕から離れてきて寂しい。

 通用口に向かうとドアが開かない。

 試しにドアノブを二、三回ガチャガチャしてみる。

「やっぱり鍵が閉まってる」
 むやみに開けられない。

 警備会社が設置している警報装置が、異常を感知して作動しちゃうから。
 有無を言わさず、警備員が駆けつける。

 上に行って、院長に解除してもらわないと出られない。
 でも院長は電話中、どうしたらいいの?

「どうした」
 突然の声に、おっかなびっくり振り返った。

 すらりとした長身を、壁にもたれかけさせて腕を組み、悠然と構えるスクラブ姿の院長が、目に飛び込んでくる。

 驚かされたのは、これで何度目だっけ、心臓が止まるかと思った。

「電話は?」
「速攻で話をつけて終わらせてきた」
「ドアに鍵がかかってます」
「このまま帰れると思うな」

 あっという間に、私の左手をつなぐ強引な院長に手を引かれ、私は訳もわからず、下りてきたばかりの階段を引き返している。

 院長が握る手の力が強くなり、二階も三階も通過するって。
 いったいどうなっているの?

 大股開きで階段を上がる院長は、六階の自宅のドアを開け放った。

「エレベーターを待つ時間さえ惜しい」

 息ひとつ切らさないで、秋の夜長みたいな涼しい顔で、きゅっと結ぶ口角を上げる。

 私は、喋るのが苦しいほど、肩で息をしているのに。

 六階の玄関先で、つないでいた手を引かれて、もつれそうになる足を踏み出した。
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