Adagio
だからその分、入社してからがきつかった。宇美は変わらず気にかけてくれるが、今年の新卒にも仕事ですでに追い越され、契約社員にも頭が上がらない。志を持って働いている人たちは眩しいが、近寄ることもできないまま差は開いていく。

 会社で働いている誰もが仕事というものに向いているわけじゃないと思う。辞めたいと思うことは、今まで何度もあった。

でも、その前に行く場所のなかった自分を拾ってくれた宇美に、たったひとつでもいいから恩返しがしたい。

「しかし、このサブレほんと美味いねえ。私も坂巻くんに、何か恩を売るかな」
「ええ? 宇美さん、さっき新井さんのことカッコいいって言ってたのに」

「それは過去の話。この年になると、恋人は若い男の方がいいわ」
 宇美が真面目くさった顔で言うから、有紗はつい笑ってしまった。

「ああ、そうそう綿貫。午前着の書類が総務部に届いてるみたいだから、ちょっと持ってきてくれる? ひとつ急ぎで処理しなきゃいけないのがあるんだ」

 言いながら伸ばされた手から、大切なサブレを守ろうと有紗がぱっと蓋を閉じると、宇美は小さく舌打ちした。

 宇美には感謝している。それでも、このサブレは駄目なのだ。
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