Adagio
「ううん、そうじゃないの。彼氏もいないし、わたしは別に。ただ、坂巻さんはそんな気持ちがあって誘ってくれてるわけじゃないから、社内で噂になっていたら申し訳ないと思って。電車が一緒になった時は気を遣って誘ってくれてるだけだと思うし」

「そんなことないと思いますっ。わたし今日坂巻さんと佐倉さんに会ったとき――」
 華美の後ろ姿を視線で追っていた坂巻を思い出すと、胸がずきんと痛む。

「坂巻さんはもしかして、佐倉さんのことが好きなのかなあって思いましたもん」
 それでも有紗が精一杯の笑顔を作ると、華美は瞳を少し潤ませた。

(ああ、やっぱり佐倉さんは坂巻さんのことが好きなんだ。きっと大好きだから迷惑をかけたくないって思って……)

 泣きたいのは有紗の方でもあったが、ここで微笑みを崩すことはしなかった。そんなことをすれば華美に気を遣わせるだけである。
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