Adagio
「あ、もしかしてお料理の練習って坂巻さんのためですか?」
 有紗は精一杯の明るい声で訊いた。

入社してから仕事で怒られ続けて一年半。その中で身につけた唯一の武装『どんなときでも笑顔を絶やさないこと』は、こんなシチュエーションでも役に立った。

「それは全然関係なくて、ただ自分のスキルアップのためで。この年でお料理ぜんぜん出来ないのは本当にやばいから」

 華美の耳が赤くなった。誤魔化そうとしても、上手に嘘をつくことすらできないのだと、よく分かる。

(佐倉さん、かわいいなあ)
 相手を思いやる気持ちがあって、真面目で仕事も出来て、可憐な容姿を鼻にかけることもない。

女性としても本当に理想の先輩で、話をすれば、きっともっと好きになるだろう。恋のライバルにすら、なれそうもない。

「次、順番だね」

 客が店を退店して間もなく、テーブルセッティングが手際よく進められてゆく。有紗は軽く頭を振って、心の隅にある劣等感を追い払った。
< 31 / 131 >

この作品をシェア

pagetop