Adagio


 必ずしも上手くいくとは限らなくても、想いを真っ直ぐに伝えようとしなかったら、きっと相手の胸には何も届かない。その効果を体感した今が、行動を起こすタイミングだと思った。

 有紗はこの日、普段より大分早く家を出た。入社して坂巻を気にかけるようになってから、どの電車に乗れば通勤時に会えるのかと、毎日一本ずつ早い時間の電車に乗りながら探ってきた。だから、いつも坂巻がこの時間帯に出社していることは知っている。

 坂巻の姿を目で探しながら改札を出て、まだ人もまばらな線路沿いの坂道を早足で上り、会社に向かう。

 その先に、ピンとした紺スーツの後ろ姿を認めると、有紗は自分の髪に指を通して整え、背筋を伸ばした。

「坂巻さんっ」
 ちょうど十字路を曲がろうとしたところで有紗が声を掛けると、坂巻は振り向いた。
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