ビーサイド

横浜駅でドアが開くと、ざわざわと人が乗り込んできた気配を感じた。
だが、隣の席には誰かが座った気配がない。

恐る恐るハンカチから目だけを出してみると、立っている人もいる中で、不自然に私の隣には誰も座っていなかった。

自分だったら確かにそうする。
この世の中、普通じゃないことからは避けて通るのがセオリーだ。

「あぶねっ」

そのとき、閉まりかけたドアの隙間から華麗に滑り込んできた若い男性と、不意に目が合った。

艶のある綺麗な黒髪と、鼻筋の通った端正な顔立ちに、目を奪われた。
手に持っているのはギターなのだろうか。
確かに音楽やっていそう、そう思わせる風貌であった。

“駆け込み乗車はおやめください” 

車内アナウンスに軽く頭を下げたその男性は、空いていた私の隣の席に腰を下ろした。

ふわっと香った甘い香りになぜだか涙は止まるし、切れた息には少し色気を感じて、なんだかドキドキしてしまう。

人間って所詮こんなものだと自分を慰めた。

「大丈夫ですか?」

隣で聞こえた小さな低い声に、私の思考回路は一瞬停止した。

― ん?空耳?

中刷り広告にでも目をやるふりをして、それとなく隣の様子を覗ってみる。

男性は手元のスマートフォンに目線を落としており、やっぱりあれは空耳だったのかと前に向き直った途端、またその声がした。

「泣いてていいですよ。俺が泣かしたっぽく見えますから」

やっぱり男性が喋っているに違いなかった。

「え、いやあの……」

私が声を発すると、男性の顔はこちらに向いて、とうとう目が合った。

吸い込まれそうに澄んだ瞳。
だけどそれはどこか冷え切ったような印象を与えた。

「もう大丈夫なので…すいません」

恐縮した私を見て、男性はふっと笑ったように見えた。

「今から時間あります?」

その瞳に捕えられたまま尋ねられた私は、目を逸らすことができなかった。

― なんだろう、この人。
関わっちゃいけない気がする。

それなのに、この胸は久しぶりに鼓動を速めていた。
同時に、好きな子ができた、と言った洋介の顔が脳裏に浮かぶ。

「お金はいいから、見に来ませんか?」

その男性の差し出したチケットに目をやって、私は二つ返事に頷いていた。

本来の私は、石橋を叩きすぎて割ってしまうほどの慎重派である。
ただ、今はイレギュラーな状態だから。

そんな風に自分に言い訳をして、頷いたことを正当化することにした。

これが怒涛の28歳の幕開けになるとも知らずに。


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