ビーサイド
「電車遅れてたの?」
何食わぬ顔しながらも、鼻を赤く染めた涼くんがそこには立っていた。
私は言葉が出なかったが、ただ気づいた時には体が先に動いていた。
彼に抱き着くと、その温もりにほっとしてしまっている自分がいる。
情けない。けどどうしようもなく幸せなんだ。
「素直じゃないね~」
そんな上から目線のくせに、彼はいつもより強く私を抱き締め返す。
彼が抱き締めているのは、私じゃない。
私に似た、彼の特別な人。
私は彼の忘れられない人の代わり。
わかっているのに、いいように彼を使ってやりたいのに、心は言うことをきかない。
これはきっとお酒のせい。酔いが回っているせいなんだ。
「全部聞いた」
そして愚かな私は、勢いに任せて口を開いていた。
「……若菜のこと?」
― 若菜(わかな)。
彼の口から出たその名前はまだ私の知らないことであったが、恐らく同一人物であろう。
「私に、そっくりだっていう」
「…うん」
抱き締められたまま、彼が一体今どんな顔をしているのかはわからない。
ただその声のトーンからするに、彼にとってこれはやはりタブーだったようだ。
「知りたいの?」
彼のその言葉は、“知らない方がいい”そう言っているように聞こえた。
つまりその牽制は、“これ以上踏み込むな”ということ。
「別に…ただ聞いたよって報告」
喉の奥が熱い。
どうして泣きそうになっているのか。
そんなのもう本当はずっとわかっていた。
今日真由子とむーちゃんがBesaidを知っていると言ったときも、亜美ちゃんの服をふいてあげているときも、私の胸に立ち込めていた、どす黒い感情の正体。
でもそれは、絶対に表に出したらいけない。
しっかりと鍵をかけたはずの想いは、今になって飛び出そうと躍起になっていた。