君のせいで僕は生まれた
第二話 ゼロ距離
旅行に行こうよと、彼は誘った。

 私には双子の弟がいる。

 名前は斗真(とうま)。十八歳、高校生のときに父親になった。

「郁(いく)も行く?」
「なんで父さんなんかと。あと、そのネタ使いすぎ」

 十二歳になる郁は、年頃だから父親にそっけない。

「ちょっとやせた?」

 でも郁は、離れて暮らす父のことをいつも心配している。

 斗真は少しだけ目を泳がせて、にこっと笑う。

「なんだよ。やめてよ」
「じゃ、ひな。土曜日の朝八時に迎えにくるから」

 ぽんぽんと郁の頭をなでて、斗真はポケットに手を突っ込んで去っていった。

 斗真と私の顔立ちはよく似ていて、笑い方もそっくりだ。

 さっきの表情はごまかすときの私の笑い方と同じだった。

 またなんだろうか。

 気がかりな思いを抱えながら、私はカレンダーを見上げた。








 子どもの頃から、よく斗真と旅行に行った。

「ミュージカルを見に行こう。ひなの好きな演目がやってるよ」

 チケットの手配から道案内まで、斗真はそつなくこなす。

 斗真は明るくて通りのいい声、白いシャツの似合うすらっとした体格をしている。

 友達からは好青年だねとよくうらやましがられた。

「何時開演?」
「十三時から」
「じゃあお昼を食べて行くとして、その前に」

 私は道の脇にある、小さな銭湯を指さす。

「お風呂に入っていこう。好きでしょう?」

 斗真は困ったように口の端を下げて笑った。

 都会の隅っこ、時代から忘れられたような古びた銭湯には、私たちの他に誰もお客さんはいなかった。

「ひなに隠し事なんてできないのに。俺も無駄な努力をするよな」

 男湯と女湯、私たちは壁一枚挟んで言葉を交わす。

「またひどい境遇の子を見たのね」
「うん」

 斗真は警察官をしている。彼が日ごろ相手にするのは、児童相談所から通報を受けた子だ。

「体中あざだらけだった。なんでもっと早く助けてやれなかったんだろう」

 クリーンなイメージを持たれる警察官だけど、彼らの日常はぎりぎりの世界だ。

「子どもを殴るなよ。痛いに決まってるだろ……」

 斗真は器用そうな外見とは違って、ひどく傷つきやすい。

 かわいそうなくらい悩み、苦しむ。それでも彼はその仕事を続ける。

 ただ時々こうやって一緒に旅行をして、少しだけ気を抜いたときにだけ、斗真は弱音を吐くのだった。

 銭湯から出て、近くのうどん屋さんに入る。

「郁は背が伸びたな」

 うどんを待つ間、斗真はぽつっと言う。

「しっかりしてきたよ。最近は私にも言い返すようになった」
「どんどんあいつに似てきてる」

 斗真は苦笑をこぼす。

 まもなくうどんが並べられて、私たちはそれぞれ箸を取る。

「郁はじきに独り立ちしちゃうかな」

 私は斗真に不安を打ち明ける。

 斗真も沈黙して、私たちは箸を持ったまま、しばらく下を向いていた。









 舞台を斗真と二人で見ながら、郁が生まれたときを思い出す。

 セックスがしたかったんだよ。病棟で斗真は私に言った。

 俺、チャラいからさ。男なんてそんなもの。

 だからさ、ひな。俺を放っておいて。

「できるわけないでしょう!」

 舞台の上で女優が叫ぶ。

「愛してるのよ!」

 あんな風に高らかに愛を叫べたらいいなと思う。

 私の知っている愛は、長い間そばにいた存在に、ふと感じるもの。

 あの日の病棟、大きな感情に押しつぶされそうになりながら、食い入るように手術室の扉をみつめていた弟。

 私と斗真は仲がよかった。お互いに何でも打ち明けたし、何も遠慮しなかった。

 でもずっとゼロ距離にいたから、その存在は当たり前すぎて、お互いの顔も見ていなかった。

 斗真が初めて私から距離を取ったから、そのときようやく彼をみつめた。

 それでやっと気づく。彼は私と違う。

 だから斗真に言った。

 放っておくなんてできないよ。助けてって、目が泣いてるもの。

 ミュージカルの後、斗真と夜桜を見に出かける。

「きれいね。私、今年初めてゆっくり桜を見たよ」

 川沿いを斗真と並んで歩く。

「ありがとう。連れてきてくれて」

 今の私の世界は、郁を中心に回っている。

 年の数え方、行事の予定。郁の変化についていくだけで大変で、でも楽しみ。

「ひなはどうして今も俺と旅行に行ってくれるんだ?」

 ふと見上げた弟は、また目が泣いていた。

「郁を育てるのに精いっぱいで、恋もできなかった。俺のせいで、ひなは二十代の時間を失くしたようなものだろう?」

 一拍だけ沈黙したのは、少し胸が痛んだからだった。

 斗真の言う通り、失くしたものはたくさんある。

 でも、でもね。

「今は満開の桜の中には立ってないけど」

 夜桜を仰いで、私は誰にともなく笑いかける。

「でも私は十二年前より、今の私が好きだよ」

 それだけは自信を持って言えるのが、私の幸せの形なのだった。
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