三十路令嬢は年下係長に惑う
「婚姻届は出していないから、出戻り、とはちょっと違うわね」

 そう言ってから、水都子の冷ややかな瞳が射抜くように坪井を見た。

「……ところで、その話は今関係あるのかしら」

 水都子の口元は笑っているのに、目は全く笑っていない。その笑みは、般若というより、怒りを通り越して妖気すら漂う泥岩の面のような凄みがあった。

 坪井は、水都子の気迫におされてたじろいだ。水都子の父は、めったに怒る事の無い社長だった。しかし、時折、本当にごくまれに、一部の幹部に対してひどい怒りを向ける事があった。

 自分の失態を部下へ押し付けようとしたり、とるべき責任についていさぎよさを見せない時に、父はそういった顔を見せるのだと、水都子の妹にして現社長の真昼は言っていた。水都子は、やさしい父の顔しか知らなかったが、真昼曰く、お姉ちゃん、怒るとお父さんそっくりと言わしめた顔を、今、水都子はしていた。

 坪井が、恐怖のあまり鈴佳を見ても、鈴佳の方は視線をはずす。隣の席に座っているだけでも、水都子のまとう冷気のようなもので凍えそうだというのに、自分で墓穴を掘った坪井をフォローするいわれは鈴佳には無いのだ。

「……イエ、カンケイアリマセン」

 声を裏返させながら、坪井が言うと、水都子はふっと元の顔に戻った。

「ああ、よかった、やっと立ち直ったのよ、私にとっては思い出したくない話でもあるし、あまり他所へ振れ回ったりしないで欲しいのだけれど、まさか、会社の顔である受付の坪井さんが、そんな短慮な事をしたりはしないわよね?」

 ダメ押しの一言だった。

 最初から、情報の出処を勘ぐったりするのでは無く、坪井本人に釘を挿せばよかったのだと、水都子は後悔とともに感じていた。
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