さざなみの声
シュウの仕事


 海外事業部に異動して一年。たった一年で、まさか海外勤務を言い渡されるなんて……。

「来月、辞令が出る。シンガポールに赴任が決まった」

 お正月休みが終わってまだ数日。土曜日の夜、仕事帰りのシュウが突然アパートに来て言った。

「えっ? 来月? シンガポール?」

 シンガポール……シンガポール……常夏の国とか、マーライオンとか、ガムは禁止……。それくらいしか浮かばない。自分の知性と教養のなさに愕然とする。

「僕も少なくても三年先だと思ってた。同期入社で海外事業部に配属された友人も早くて三年、遅ければ五年、海外に赴任するまでに掛かってる」

「うん……」

「寧々、付いて来てくれるって言ったよな。でもあんまり急だから寧々にも仕事はあるし……。正直言って一緒に来てくれとは言えない」

「シュウ? 一人で行くつもりなの?」

「シンガポールなんて、すぐそこだよ。時差だって一時間だし。せっかく寧々をデザイナーとして認めてくれたのに。会社にも社長ご夫妻にも迷惑は掛けられない」

「でも……」
 頭の中がパニックで何も考えられない。

「大丈夫だよ。僕は寧々のことしか考えてないから」

「来月になったら、すぐにシンガポールに行くの?」

「引き継ぎもあるし、二月の半ばに一度行って十日くらいで戻る。マンションの片付けを済ませて、三月の始めには正式に赴任になると思う」

「何年くらいシンガポールに居るの?」

「それは分からないな。二年か三年か、五年か……」

「そんなに……」
 考えが纏まらなくて何を言えばいいのか分からない。

「じゃあ、突然ごめん。今から実家に行って来るよ。きょうは土曜日だから、みんな居ると思うし、また電話する」

「うん……」

 シュウは慌ただしく靴を履いて出て行った。
 ドアにカギを掛けてベッドに座り込んだ。

 シュウが居なくなる。会えなくなる。一人でシンガポールへ行ってしまう。
 これは夢? ううん。間違いなく現実なんだ。
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