さざなみの声


 翌日の日曜日も忙しいらしい。シュウからは電話もメールもない。会社で海外赴任の準備を始めているんだろうか。

 私は昨夜一睡も出来なかった。確かな現実として受け止められない。シュウが居なくなる。私の前から居なくなる。海外赴任を終えて帰って来るのを何年も待たなければいけないの? 夜になっても電話もメールもない。忙しくて時間も取れないんだろう。

 明日は月曜日。仕事が待っている。眠らないといけないのに……。明け方わずかな時間ウトウト眠っただけ。食欲も湧かない。薄めのカフェオレを入れて胃の中に流し込んで出社した。

 午前中は新作のカラーフォーマルの打ち合わせ。デザインはもう既に出来上がってパタンナーの仕事も終わり、いくつか候補に上がっていた生地で見本を何点か作ってあった。どの生地にするかカラー展開にするか等、その他細部を決める。特別な問題もなく打ち合わせが終わった。

 ちょうどお昼。会議室から出たところで副社長に呼び止められた。

「寧々さん、お昼付き合わない? 友人がこの近くにお店を出して、まだ行ってないのよ。顔を出そうと思っているんだけど一緒にどう?」

 食欲なんてなかったけど副社長に付き合うことにした。会社から歩いて十分程で、こんなところに素敵なレストラン。いつの間に出来ていたんだろう。まったく知らなかった。

「ここ以前は空き地だったと思うのよ。さぁ入りましょう」

 店に入るとオーナーらしき女性が笑顔で
「いらっしゃいませ。やっと来てくれたのね」

「外観も素敵だったけど中はもっと素敵ね。貸切でパーティーも出来そう。ごめんね。こんなに近いのに仕事が忙しくて、なかなか来られなくて」

「分かってるわよ。だから、あなたの会社の近くに店を出した訳じゃないけどね。来てくれてありがとう」

「お昼は何がお奨めなのかしら?」
 案内されたテーブルに着きながら副社長が尋ねる。

「そうね。日替わりのランチがお得で美味しいわよ」

「じゃあ、それを。寧々さんも同じでいいかしら?」

「はい」
 と答えたものの食べられるのだろうか。

「かしこまりました」注文を聞いて彼女は厨房へと消えて行った。

「ところで寧々さん朝から顔色が悪いわよ。具合でも悪いの?」

「いいえ。大丈夫です」
 余計な心配は掛けられない。

「何か悩みでもあるのかしら? 相談に乗るわよ」

「…………」

「副社長としての私に相談出来ないのなら、女の先輩として聞くわよ」

「女の先輩?」

「えぇ。無駄に長生きしてるつもりはないわよ。いろんな事があったわ。服飾を勉強して結婚して主人と会社を興して。子供にだけは恵まれなかったけどね。寧々さん、二十八歳になったのかしら? これからの人生の方がずっと長いのよ。いろんな事があって当たり前なの。良い事も大変な事も逃げる訳にはいかないのよ」

 副社長にそう言われて不覚にも涙が零れた。

「やっぱり何かあったのね。話してごらんなさい」

「実は……」

 今年の秋に結婚する約束をしている人が居る事、結婚しても仕事は続けるつもりでいる事、その彼が急に海外への赴任が決まって三月には一人でシンガポールに行ってしまう事、それを二日前に聞いたばかりだという事をすべて話した。
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