檸檬の黄昏

自分の車に乗り込みエンジンをかける。


おれは用済みというわけか、と耕平は声に出さずに呟く。


優秀……


本当に優秀な人間は一番大切なものが何か
わかっているはず

おれはそうじゃなかった

耕平は自宅へ向けて車を走らせながら、当時を思い返していた。


十年前。

日本と海外の大学をトップで卒業し、社会人として働き始めて三年目。

当時の耕平は後継者候補として外資系大企業に勤務しており、若いながら次の年には課長昇進が決定していた。

そんな彼を気に入っていた上司からの薦めで、見合いをした取り引き先の上司の娘、それが西ヶ崎沙織(にしがさき さおり)だった。

いわゆる高スペック男子である耕平は女関係に不自由したことは全くなかったのだが、特に断る理由もなくそれを受けた。

このお見合いには当然、仕事の関係上の政略目的があることは分かっていた。



耕平、沙織共に二十五歳の時である。


沙織は家庭的な穏やかな娘で世間知らずなところはあったが、自分の希薄な家庭環境を癒す暖かさに惹かれ結婚を決めた。


結婚したのはいいが若かった耕平は仕事、出張、接待に終われ帰宅時間も遅く、帰れない日も多かった。


かと云ってそのスタイルを変えることもなかった。


それが役割だと思っていたからだ。
給料も充分にあったし、何も不自由はかけていない、と。


沙織自身も一緒に暮らしていたマンションの内装やインテリアにこだわり、お互いに生活を楽しんでいるように感じていた。


そんな結婚から一年を過ぎたある日。
梅雨の時期、どしゃ降りの夜のことだった。
接待中の耕平に沙織から連絡があった。


体調がおかしいので帰ってきて欲しいと云う。


アルコールをすでに摂取していた耕平は救急車を呼ぶように伝え、後で連絡するようにとスマホを切った。


だがそれ以降、妻から連絡が来ることはなかった。


次に会った時は薄暗い霊安室の寝台に横たわり、冷たくなった沙織だった。

濡れた道路を飲酒運転し暴走した車が沙織を乗せた救急車に猛スピードで追突し、高架道路からスリップ転落したのだ。


沙織は衝撃で外に投げ出され全身を打ち死亡した。


彼の周囲の人間は耕平のせいではないと口を揃えて擁護した。


しかし彼はわかっていた。


沙織が事故に合ったと連絡があったとき、自分は酒を飲んで浮かれていたのだ。


すぐに帰ってやれば良かった。
家族より仕事を優先した結果だと。


「おれが沙織を殺したも同然だ」


それ以降、耕平はアルコールを一滴も飲んでいない。

会社では噂が広がりいられなくなり退職し全ての貯金、賠償金、保険金と退職金を妻の遺族に渡した。
金で解決するのかと罵られながら娘を返してくれと妻の両親に泣かれ、土下座した。


だが、どうしようもなかった。


すべてを失い無気力になっていた耕平に声をかけたのが、たまたま訪ねてきた敬司だった。


家賃すら払えずホームレス生活をしていた耕平に家を紹介し、一緒に仕事を始めた。


沙織を失い十年。
起業してから七年になる。


敬司に仕事を誘われてからは、がむしゃらに打ち込み正直どうやってここまで来たのか分からなくなる時がある。

結婚指輪をしているのは妻を愛している証であり、これからも他の女性とは恋仲にはなることはない、との耕平の意思の現れでもあった。


これからも変わらぬ道を走り続けると彼は決めていた。

決めていたはずだった。

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