大江戸シンデレラ

実は、吉原の面番所に詰める御役目を担う町方役人は隠密同心のみのため、いくら「見習い」とはいえ与力が配されることはない。

ところが、兵馬の父で南町奉行所・筆頭与力である松波 多聞(たもん)の、
『町方役人は恵まれない境遇の者を扱うことが多い。かの地には、孔子先生の論語を素読するよりもずっと教えてくれることがある』
という(げん)により、特別に兵馬は遣わされたのだ。

兵馬が吉原じゅうの者から「若さま」と呼ばれている由縁(ゆえん)である。


兵馬の父もまた、その父——つまり兵馬の祖父で、与力を束ねる総元締めでありながら南町奉行を一番(いっち)(そば)で支えねばならぬ御役目の「年番方与力」を勤め上げた松波 源兵衛(げんべえ)に云われて、十五でこの地に降り立っていた。

父の多聞は若かりし頃、美丈夫な容姿と鯔背(いなせ)っぷりな気質が(ちまた)で評判となり、勝手に浮世絵にものされた挙句に「浮世絵与力」と呼ばれ、歌舞伎の演目になるまでの人気だった。

兵馬はさような多聞に瓜二つと云われている。

「生まれ育ち」に「見て()れ」までも極上とあらば、羨ましがられるだけでなく、自然とやっかみも多くなる。

ゆえに兵馬もまた、あの頃の父のように、表ではつつがなく多聞と接している同心たちが陰では忸怩たる思いであろうと察して、いつも一人で人気(ひとけ)のない裏通りを巡っていた。


そして、一目で与力だとわかる(かみしも)肩衣(かたぎぬ)はつけず、着流しに袴姿で歩いていたら、かような場に居合わしたのだった。

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