それは誰かの願いごと




翌週、朝一で外の仕事を終えて戻ると、一階のエントランスで浅香さんから声をかけられた。

「お疲れさま、和泉さん」

「あ…、浅香さん、お疲れさまです」

他部署でフロアも違う浅香さんは、基本的には社内で顔を合わせる機会は少なかったので、実は、郁弥さんの病室で会って以来顔を合わせてはいなかった。

つまり、わたしと郁弥さんが付き合いだしてから、はじめて浅香さんと言葉を交わすのだ。

幾ばくかの緊張感が腹部の奥で燻っている。

そんなわたしの内心に気付かない浅香さんは、まるで身内に対するように親しげに手を振ったりしながら近付いてきた。

「ちょっと久しぶりよね?」

浅香さんはわたしの前でぴたりと足を止めた。
わたしはそれを、立ち話開始の合図に感じた。

「そうですね。あ…、ご結婚、おめでとうございます。あと異動の件も、内定、されたんですよね?おめでとうございます」

つい今朝、正式に発表されたばかりの結婚と、郁弥さん経由で内密に教えられていたヨーロッパ転勤について触れてみた。もちろん、後者は周囲に漏れないよう、声のボリュームをしぼって。

浅香さんは「ありがとう」と幸せそうに笑って返した。
わたしは、浅香さんに “なんであなたが知ってるの?” という顔をされなかったことに安堵した。








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