それは誰かの願いごと




「お母さんが見えたの?どこ?」

わたしは、蹴人くんのお母さんが来たら、挨拶して、サンドイッチとかオレンジジュースを与えたことを報告しなきゃと、蹴人くんの視線の先を探した。

「もうちょっとでこっち来る」

「え、どこ?どんな服着てるかな?」

「ほら、もうすぐや」

「どこにいるの?」

朝の通勤時間帯なので、駅ビルの中を行き交うのは仕事用のキッチリした服装の女性が多い。
学生っぽい、若い女の子もいるけれど、蹴人くんの母親の年齢ではないだろう。

「ね、お母さんはどの辺りにいるのかな?」

すると、蹴人くんの母親らしき人物を見つけられず焦れるわたしの背後で、蹴人くんは大きく呼びかけたのだ。


「お母さん!」


その声は一段と大きく、クリアで、蹴人くんの母親にもすぐに伝わるように思えた。

…………けれど、誰一人としてわたし達に向かって歩いてくる人はいない。


わたしはおかしいなと思って、蹴人くんに振り返った。

「ねえ蹴人くん、お母さんって…」

どこにいるの?

そう尋ねようとしたわたしのセリフは、音を成すことはなかった。



わたしの目の前には、誰も、いなかったから。



「え…………?」

無人のベンチが並ぶ光景を、わたしは瞬きも忘れて凝視した。

「………蹴人、くん……?」

か細く名前を呼んでも、何も返ってこない。


どういうこと――――――――?


わたしがよそ見をしたわずかな隙に、蹴人くんがいなくなった。

「……蹴人くん?!」

慌てて見まわすものの、子供の姿なんてどこにもない。


あんな小さな子供が、走って行ってしまったのだろうか?
お母さんを見つけて嬉しさのあまりに全速力で駆け出したのだとしたら、考えられなくも、ない…………だろうか?

「蹴人くん?」

もう一度、男の子の名前を呼んでみる。

けれど、やはり、どこにも、どこにも蹴人くんはいなかった。


本当に、お母さんのところに走っていったのだろうか?
いや、それにしても姿かたちが忽然と消えてしまうなんて、ちょっと説明つかないんじゃ………


朝の通勤ラッシュの隅で起こった不可解な出来事に、わたしは、ただただ呆然とするしかなかった。

それでも、

「きっと、お母さんのところに行ったのよね……?」

そう思うことで、無理やり自分を納得させようとしていた。

だってそれ以外、あり得ないもの…………




いつもと変わらない朝、いつもと変わらない通勤シーンだったはずなのに、
たった数十分の間に、色々なことがあり過ぎだ。


わたしは、まだ出社前だというのにもかかわらず、もう、気持ち的には疲労に満ちていたのだった……………










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