それは誰かの願いごと




その諏訪さんが、妊婦さんに真っ先に声をかけた男の人だったのだ。

そして席を譲ったあと、反対側の扉付近に立つ姿は、あまりにも自然で、“良いことをした” なんて誇らしげな雰囲気は1ミリも出していない。
その代わり、諏訪さんが座っていた場所に落ち着いた妊婦さんはとても嬉しそうだったけれど。


わたしは、吊革を握りながらスマホを操作している諏訪さんを、つい見つめてしまった。

電車で誰かに席を譲ることなんて、そんなに劇的な出来事ではないだろう。
ドラマチックでも、驚くべき話でもない。
でもわたしから見れば、少なくとも、自分にできないことを容易くやってのけ、何事もなかったかのようにしている諏訪さんに、小さな憧れが芽生えたのだった。

彼は他部署のわたしのことなんか知らないだろうから、わたしも遠慮せずにじっと見てしまう。

派手なブランドのものではないけれど、上品な仕立てのスーツを清潔感たっぷりに着こなしていて、細身の方なのに、その背中は大きくて頼りがいがあるように感じる。
ちゃんと声を聞いたのは今日がはじめてだったけど、声までもが素敵だったな………


そんなことを考えていると、ふっと、諏訪さんがこちらに視線を泳がせたのだ。

そして、あ、と思った瞬間には、もう、目と目が合っていた。


ほんのわずかな間、確かにわたしと諏訪さんの視線は絡まって、
それから……………



――――――――もし、恋に落ちた瞬間というものを問われれば、間違いなく、この一瞬だっただろう。









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