オオカミ社長は弁当売りの赤ずきんが可愛すぎて食べられない

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 喫茶店を出た俺が向かったのは、我が家……ではなく、我が家の向かいの狐崎家。
「明彦さん待って!? 私は悪くないわ! あの子が私に失礼な物言いをするから、いけないのよ!」
「麗子は黙っていなさい!」
 向かいの狐崎家の一人娘、麗子とは幼稚舎時代からの付き合いだ。麗子は昔から何かにつけて俺の後ろをちょろちょろと付いて回りたがった。
 俺にとっては、常にハエがプンプンと飛び回っているようなもの。煩わしくはあったが、だからといって、わざわざハエに目くじらを立てて怒る阿呆はいない。
 俺が外部進学し他大学に進んだ後は、麗子と学内で顔を合わせる事がなくなりせいせいしていたが、たまに家の前などで顔を合わせれば煩く纏わりついてきて辟易したものだった。
「麗子可愛さに、わしが行き過ぎた。明彦君、非は麗子ではなくわしにある。申し訳なかった! 麗子の今後の行動は、わしが厳しく監視し、愚かな真似はさせないと誓う。わし自身も、麗子の言うがまま甘やかし放題できた、これまでの愚かな自分を変える。こんな真似は二度としない、だからどうか今回ばかりは穏便に済ませてくれないだろうか!? この通りだ!」
「パパぁ~」
 狐崎家の当主は間違いなく有能だ。けれど、遅く出来た一人娘の教育に関しては道を誤ったとみえる。
 狐崎家の当主に対し、怒りや呆れは禁じ得ない。しかし一方で、背中を丸め、娘に代わって許しを乞うその姿が、俺の目に僅かに新鮮にも映る。
 ……こんなに有能な男ですら、娘可愛さに、愚かに道を踏み外す。
 その背中に、ほんの少し同情心が浮かんだ。
「狐崎さん、貴方には幼少の頃からよくしていただいている。父も貴方と懇意だ。そんな貴方に免じ、今回だけは目を瞑りましょう。けれど、次に同じような事があれば……」
「分かった! ありがとう明彦君! 恩に着る、本当に恩に着るよ!」
 どんなに詫びてこようが、追及の手を緩めてなどやるものか、そう思ってここまで来たはずだった。
 けれど俺が狐崎家の当主に告げたのは、ここに向かう道すがらずっと考えていたのとは違う、こんな台詞だった。
 不思議とそれに、後悔はなかった。処罰感情は、必ずしも益とならない事を、俺は経験で知っている。
 ここで麗子をどれほど糾弾しようと、月子が心に負った傷が癒える訳でもない。
 アルバイトや内定に関しても、一度付いてしまった難は消せるものではない。
 ……だから、これでよかったのだ。
「明彦さん、どうして? どうして私にこんな仕打ちをするの?」
 涙を一杯に溜めた目で、麗子が俺を見上げる。
 整えられた肌と髪をして、その造作はきっと、世間的には美しいと評していいものなのだろう。
 けれどその瞳は、己にとって優しい景色以外を映そうとせず、その手は何も生み出さない。
 俺はきっと、それに対して善し悪しを唱える立場にない。
「……麗子、幼馴染のよしみで、最後にひとつだけ伝えよう」
 しかしここで、よちよちと覚束ない足取りで俺の後を付いて回る、幼い頃の麗子の姿が脳裏に過ぎった。早生まれの麗子は同級だが、四月生まれの俺よりもよほどに稚かった。
「君ももう二十五になる。今の君は、若く美しいのかもしれない。だが五年後、十年後、そんな君に何が残る? 幸運にも君の父上には財と力がある。もしかすれば君は、一生涯父上の残した財で暮らしていけるのかもしれない。だが、それでいいのか?」
 過ぎったかつての記憶が、俺に言わせた。
 ポカンと俺を見上げる麗子に、俺の言葉の真意がどこまで伝わったのかはわからない。
 しかし俺にとってはそれももう、どうでもよかった。
 何故なら俺にとって麗子とは、その程度の存在にしかなり得ないからだ。麗子に対し、これ以上の感情を、俺は持ち合わせない。
「狐崎さん、失礼します」
「ありがとう、明彦君!」
 告げるべくは、全て告げた。
 俺は、向かいで茫然と固まる麗子と、床に頭を擦りつけるように下げる当主の前を通り過ぎ、狐崎家を後にした。


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