オオカミ社長は弁当売りの赤ずきんが可愛すぎて食べられない

19

「あ、はーい! 今行くから! ……あの、それじゃあ明彦さん、今日はありがとうございました」
 月子は弟達に向かって声を張り、葉月の脇から俺に向かって身を乗り出して告げた。
「あぁ、俺の方こそ付き合わせてしまって悪かった。だが、お陰で楽しかった。それじゃ、また明日」
「はい」
 月子は最後にぺこりとひとつ頭を下げると、シフォンのスカートを翻して足早にアパートに消えた。当然、葉月もその背中に続くかと思われた。しかし俺の予想に反し、葉月はその場から動こうとしなかった。
「……なんだい? 俺に何かあったか?」
「……」
 俺から水を向けてみたのだが、葉月は無言のままジーッと俺の目を見つめたまま。
 常ならば、このような態度を取られれば、多少の不快感なりを感じているに違いない。しかし、月子によく似た面差しの青年から見つめられるこの状況は、俺にとって決して厭わしいものではなかった。
 そうしてしばらく、互いに無言のまま見つめ合っていれば、葉月が唐突にニッコリと笑みを浮かべた。
 ……な、なんだ?
「この間のケーキ、ご馳走様でした。それから、これからもねーちゃんをよろしくお願いします」
 思わず身構えてしまったのだが、葉月の口から飛び出したのは、予想もしない言葉だった。
「……てっきり俺は、君に疎ましがられているのかと思ったぞ」
「はははっ!」
 俺がポロリと溢した本音。それを聞き付けた葉月は声高に笑った。
「ねーちゃんを横から掻っ攫おうとする男が疎ましくないと言ったら嘘ですよ。だけど、ねーちゃんの幸福を前にすれば、俺個人の感情なんかはどうでもいい。それに悔しいけど、貴方にはねーちゃんを幸せにしてみせるだけの財も力もある。そしてなにより、貴方がねーちゃんを深く想ってるのは確かだから」
 そうしてスッと笑みを収めた葉月は、表情を引き締めてこんなふうに続けた。
 まさかの、俺を擁護するかのような発言に、思わず頬が緩む。
 ところがこの後、葉月は俺の緩みかけた頬と気持ちを一瞬で引き締める、鋭い楔を打ち込んだ。
「ただし、もしも貴方がねーちゃんを泣かせたら、その時は――」
 っ!! 聞かされた瞬間、思わず喉の奥がヒュッと鳴った。
 三郎に告げられたのとよく似た『もしも月子を泣かせたら――』という仮定から始まった忠告は、しかし、その後に続く内容の物騒さが三郎とは桁違い……!
 ちょっと待て!? 月子とよく似た面差しの顔で、そうも物騒な発言を繰り出すなど、反則だろう!!
「ははっ。まぁ要は、ねーちゃん泣かさなきゃいい訳ですよ」
「俺は肝が冷えたぞ……」
「はははっ。よく言いますよ。貴方は、どう転んだってそんなタマじゃないでしょうに。……まぁ、そういう訳で、貴方に会ったら伝えたいと思っていた事も伝えられたので、俺も戻りますね。それじゃ、機会があればまた」
 葉月はヒョイと肩を竦めて軽い調子で言うと、ヒラヒラと手を振りながら外階段を上り、さっさとアパートの部屋に引っ込んでいった。
 その背中を見るともなしに見ながら、俺は葉月の言い残した最後の言葉を反芻していた。
 ……そんなタマじゃない、葉月は俺にそう言った。
 しかしその見解は必ずしも正しくない。
 確かに俺は弁護士として、そして企業人として、同世代の大多数よりも余程に多くの知識と経験がある。そうした意味では、世間一般より、余程に肝は据わっているに違いない。
 しかし、月子に対してだけは、それらの知識経験もまるで通用しないのだ。月子を振り向かせるにはどうしたらいいのか。月子を喜ばせるには何をしたらいいか。
 霧の中に放り出されてしまたかのように、先の見通しは立たず、取るべき行動もまるで分からない。
 だから俺は月子に、みっともない姿や無様な姿を見せてしまう事もあるだろう。
「……だけど月子、君を愛おしく思う心だけは、俺はどんな男にも負けない」
 俺の呟きは聞く者なく、宙に溶けた。


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