短編集



ドアの閉まる音が静かな部屋にやけに大きく響いた。
まるでドアを境に世界が2つに割れたように。


ー川西side

悲しませたくない。
これ以上は、裏切っちゃいけない。

たった一度の過ちのはずだった。
それがズルズルと続いているのは誰のせいでもない、自分の優柔不断が招いた事だろう。

《今日も帰れそうもないわ。ごめんな》
彼女にメッセージを送って家とは真逆の方向に歩き出す。
今日は仕事は早く終わり、飲みの誘いもなかった。
普段なら彼女の待つ自宅に真っ直ぐ帰るところだろう。
彼女の美味しい料理を食べで、一緒に晩酌しながら1日の出来事を話し合う。
そんな幸せを放り出して向かう先は決して好きではない女の家。
ただ体を重ねるだけの関係。

今日の漫才は最悪だった。
台詞は噛むし、間は悪いし、受けもイマイチ。
真っ直ぐ帰る気にはなれなかった。

「おかえりなさ〜い」

耳障りな甘ったるい声で靴を脱いでいる俺の首に腕を回してくる。
拒むこともせず近づいてくる唇に触れると満足そうな顔をする。

この家に来るのはもう何度目だろうか。

何度来ても慣れないムスクの香りに包まれながら女の腰を抱いた。
別に本気で愛し合ってる訳じゃない。
だからこそお互い気が楽で、この関係を続けている。

俺が本当におかえりと言われたいのはお前なんかじゃない。
おかえりもただいまも、あいつにしか言わないし言われたくなんてない。

そんな言い訳を頭で繰り返しながらベッドになだれ込み、自分の下で甘い声を出す女を冷めた目で見ながら自分の欲を吐き出した。


ー彼女side

「えっ」

《今日も帰れそうもないわ。ごめんな》

彼からこんなメッセージが届いたのは晩ご飯を食卓に並べ終わった時だった。

彼は、今日が何の日か忘れてしまったのだろうか。
今までも幾度となくこんなことはあった。

でも、今日は。今日だけは。

誕生日。

そう。今日はあたしの誕生日だった。
どんなに忙しくても毎年必ずお祝いしてくれていた。
今年も、お祝いしてもらえるものだと思い込んでいて張り切って豪華な料理を作ったりした。

自分の誕生日なのになぜか彼の好物ばかり作ってしまっていて、彼の喜ぶ顔を思い浮かべてウキウキしていた。

ついさっきまでのそんな気持ちは彼からのたった一通のメッセージでモヤモヤに変えられてしまう。

別に毎日帰って来てほしい訳じゃない。
もちろん帰って来てくれるのが1番だけど、彼にも仕事があるし、付き合いだってある。

そういう業界のことは全然わからないけど、わからないなりにも理解しようとした。
わがままだって言わないようにした。

普段抑え込んでいる気持ちが溢れ出しそうになって気持ちを切り替えるために料理を片付け始めた。

(自分で作って自分で捨てるなんて、惨めすぎる。)

決して口からは出ないように心の中でぶつぶつ言いながら片付けていく。

ーピロン

片付けの手を止めてスマホに飛びつく。

もしかしたら、帰れることになったのかな。
誕生日、思い出してくれたのかな。

そんな儚い期待はすぐに打ち砕かれた。

ー水田さん

スマホの通知欄にはそう表示されていて、彼の相方、水田さんからのメッセージを告げていた。

《今日、誕生日やったよな?おめでとう!今日は賢志郎とお祝いかな?これからも仲良くな〜!》

水田さんからのメッセージに、心がざわめく。
こんなメッセージを送ってくるってことは彼は今、水田さんとは一緒にいないのだろう。

じゃあ彼はどこで、誰といるのだろうか。

だめだだめだと頭が警報を鳴らすのを無視して、私は水田さんにメッセージを送った。

《ありがとうございます!実は賢志郎さん今日帰ってこれなくなっちゃったらしいんですよ〜ひどいですよね!》

つとめて明るくメッセージを打ってみたけど、心のざわめきは取れないまま。

《え、そうなん?今日は仕事終わって、飲みもないはずやねんけどな、、。》

返ってきたメッセージにふっと小さな笑いがこぼれた。

やっぱり。そういうことか。

なんとなく、自分以外の影は感じていた。
たまに付けて帰ってくる甘ったるいムスクの香り。

飲みの席で付いたのだろうと思い込んで蓋をしていたけど、それなら納得がいく。

浮気、されてるんだ。

こういう時って泣きわめいたり、浮気現場に突撃したりするんだろうな。

なんて冷静に考えてる自分にびっくりした。

考えないように抑えていただけで本当は気づいていたんだ。
それを彼に確かめることもせず、いままで知らないフリをしてきたのはまだ彼の事が好きだったから。

ずっと好きだった彼に告白された時の嬉しさや初めて手を繋いだ時のドキドキ。
何もかもが幸せだった頃の事を思い出した。

スマホもテーブルに置いて、残りの料理をゴミ箱に詰め込んでいく。

次にやることは決まっていた。
もう、わたしにできる事はそれだけだ。


ー川西side





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