音にのせて

第9話 過去の記憶

目を覚ました私は、ゆっくりとベッドから起き上がった。
今日は土曜日。学校は休みなのでゆっくりしていても良いのだが、どうも落ち着かない。理由は分からないが、妙に胸のあたりがザワザワする。
そんな中で頭に浮かぶのは凌玖君のこと。昨日、公園で話をしていた凌玖君の様子が頭から離れない。

「フゥ…」と1つ息を吐くと、私は服を着替えて自分の部屋を出た。
ちょうどその時、室井さんが廊下をこちらに向って歩いて来た。

「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます」

室井さんは私の傍まで来ると軽く会釈して挨拶をした。

「今日は学校も休みですので、ゆっくりなさってください」
「ありがとうございます。…あの、凌玖君は…?」
「坊ちゃんでしたら、生徒会のお仕事で学校に行かれましたよ。今日は歩いて行かれると仰り、朝早く出て行かれました」
「そう…ですか」
「それでは、私はこれで」

そう言って、室井さんは私の横を通り過ぎた。

「室井さん!」
「はい?」

私が急に呼び止めた為、室井さんは不思議な表情を浮かべながら振り返った。

「…凌玖君の本当のお母さんって…どんな人だったんですか?」

私の言葉に室井さんは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの優しい笑顔に戻した。

「以前の、奥様の事ですか?そうですね…」
「違います。…亡くなった、本当のお母さんです…」

その言葉に、今度はハッキリと室井さんの表情が困惑の色を浮かべているのが分かった。

「…どうして、そのことを…!?」
「…凌玖君から…聞きました」
「まさか!?坊ちゃんは何も知らないはず…!!」
「凌玖君は全部知ってました。前のお母さんが本当のお母さんじゃないことも…自分の記憶が無いことも…」

室井さんは驚きの表情のまま、しばらく私を見つめていた。

どうしてこんなことを室井さんに聞いたのか、自分でも分からなかった。
ただ、知りたかった。
知らないといけない気がした。
昨日から感じているこの胸のザワつきが、そう私を駆り立てていた。

室井さんは一呼吸してから、ゆっくりと口を開いた。

「奥様は…とても音楽が好きな方でした。ピアノが好きで、その腕前も素晴らしいものでした。大学でも音楽を専門的に勉強されており、将来的にも有望な音楽家になるのではと期待されていた方でした」

懐かしむように、ぽつりぽつりと話す室井さんの話を、私は黙って聞いていた。

「旦那様と奥様は、いわゆる政略結婚でした。前の会長、旦那様のお母様が当時は西園寺家を仕切っていましたので、旦那様も会長のご命令には逆らえなかったのです。奥様が西園寺家にいらっしゃった時、会長は奥様に音楽から手を引くよう命じられました」
「どうして…?」
「当時、奥様にはお付き合いをされていた方がいらっしゃいました。大学で知り合い、お付き合いをされたとか。その方はヴィオラを専攻されており、奥様とはよく一緒に演奏をされていたようです。しかし、奥様が大学を卒業と同時に旦那様との結婚が決まりました。奥様は結婚話に納得されず、反発されていたのですが、奥様のお父様がそれを許さなかったのです。様々な手段で奥様とその方を会わせないようにし、ほぼ強制的に旦那様と結婚という事になりました。そんな奥様の気持ちを知った会長は、ピアノを弾くことを禁じることで奥様に圧力をかけました。“これ以上、他の男の事を想うな。そんな気持ちは忘れろ。”そんな想いを込めて…」

室井さんの言葉に、私は言葉が出てこなかった。
自分の好きな事を禁じられたら、どんな気持ちだろう。
きっと、私が想像している何倍も辛くて悲しい事なのだろう。
そう考えるだけで、言いようもない苦しみが胸が締め付けた。
そんな私の気持ちを察してか、室井さんは優しく微笑みながら続けた。

「しかし、凌玖坊ちゃんがお生まれになり、幼稚園に行かれるようになると、坊ちゃんのお迎えに行くついでに、奥様は会長に内緒で少しだけピアノを弾いていらっしゃったんです。坊ちゃんも奥様のピアノを聞くのがお好きで、本当に楽しそうでした。しかし、坊ちゃんが小学2年生の9月、奥様は交通事故に遭い亡くなられました。一緒にいた坊ちゃんは、そのショックの影響か奥様との記憶が一切消えておりました」

話を聞いているうちに、私の心臓がドクドクと脈を打ち始めた。何かを考えようとする度、頭の中では警鐘が鳴っっている。
この感覚は何なのか。バラバラのピースだったものが1つ1つ繋ぎ合わさろうとしているのに、身体の一部がそれを邪魔しているようだ。

その時、この空気を遮るように携帯音が鳴った。ディスプレイを見ると真翔君の名前が表示されている。
私は室井さんに軽く頭を下げて、通話のボタンを押した。

「…もしもし?」
「あ、奏ちゃん?今西園寺と一緒にいたりする?生徒会の件で確認したいことがあって携帯に電話してるんだけど、アイツ出ないんだよね~」
「え…?凌玖君なら生徒会の仕事があるって学校に行ったみたいだけど…」
「え?今日?今日はそんな予定無かったはずだけど…」

真翔君の言葉に、私は一瞬固まってしまった。

(まさか…!?)

携帯を握り締めている手が震え、心臓がさっきよりも大きな音を鳴らしているのが分かる。
携帯の向こうから声を掛けている真翔君の声も、今は私の耳には届いていなかった。

「室井さん!そのお母さんの名前って何ていうんですか!?」

私は鬼気迫ったような勢いで、室井さんに尋ねた。

「え?えっと…恵美様と…」

その名前を聞いた瞬間、私の中にあったものが一本の線へと繋がった。

「じゃあ…もしかしたら凌玖君は…」
「奏ちゃん?何かあったの?」

真翔君の声で、携帯が未だ通話中だったことに気付いた。

「…ごめん!もう切るね!」

まだ何か言っている真翔君を無視して通話を終了させると、すぐに私は廊下を走り出した。後ろから室井さんの呼ぶ声が聞こえてきていたが、今の私にはどうでも良いことだった。



外に出てみると、空には黒い雲が広がっていた。
それにも構わず、私は走り出した。

しばらく走ると、案の定雨がぽつぽつと降り始めてきた。ずっと全力疾走で走って火照った体に、冷たい雨がかかる。服に雨が浸み込み、体にへばりついて気持ちが悪い。
しかし、私は立ち止まらず走り続けた。





ある場所に到着すると、私は足を止めた。
どのくらい走っただろうか。無我夢中で走っていたせいで時間の感覚が麻痺しているが、恐らく20分程は走っていたのではないだろうか。こんなに必死に走ったのはいつ振りだろう。うまく呼吸も整えられない。心臓がバクバク早鐘をついている。
これは、走ってきたせいだろうか。
それとも…。

私は目の前に建っている建物を見つめた。壁の所々が壊れていて、白い塗装が黒く汚れている所も見受けられる。
だけど、私にとっては懐かしく、とても大切な場所だ。
恵美先生と出会った…音楽と出会った、小さな教会。

大きく息を吐くと、少しだけ乱れていた呼吸が落ち着きを取り戻した。
私はゆっくりと歩を進め、教会に近付いていった。扉に手を掛けると、ギギッという音と共にゆっくりと開いた。中は薄暗く、昔は綺麗に飾られていたステンドグラスも、今は割れてしまっている部分もある。その割れ目から外の雨が少しだけ流れ込んできていた。しかし、正面にある天使のイラストは今もしっかり残っており、その上にある金色の十字架もまだまだ輝きを持っていた。そして、ピアノ。すっかり埃を被っているが、昔と同じ場所にそれは置かれていた。
しかし、いつもあのピアノを弾いていた人物は、今はいない。
その代わりに、今は制服を着た彼、凌玖君が静かに座っていた。
私はゆっくりと彼に近付いた。きっと気付いているはずなのに、凌玖君はこちらを向こうとしなかった。

「…凌玖君…」

私が後ろから声を掛けても、彼は何も反応しない。表情も伺うことができない為、それがまた私に不安を抱かせた。

「…あの、凌玖君…」

声を掛けたものの、その後の言葉が続かない。
何を話したら良いのか分からない。
しかし、声を掛けずにはいられなかった。
このままでは凌玖君が、手の届かない遠い所に行ってしまいそうだったから。

「…よく、分かったな。…俺がここにいるって」

今にも消え入りそうな声で、凌玖君は呟いた。
その声には、一切感情が感じられなかった。

「…お前、昨日言ってた先生のこと…好きだったか?」
「…うん、大好きだったよ」

私がそう言うと、凌玖君はゆっくりとこちらを振り返った。彼の碧い瞳はいつもよりも一層深く見え、その瞳の中には私が映し出されているのに、彼には私の姿が見えていないようだった。

「じゃあ…その大好きだった先生を、俺が殺したって言ったら…どうする?」

その言葉に、私は体が凍ったような感覚に陥った。

「…ど、いうこと…?」

言葉がうまく発することができない。
それでも、凌玖君の光を宿していない瞳が私をずっと見つめて放さなかった。

「俺が…俺が、母さんを殺したんだ…」
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