バレンタインのすれ違い

2月13日 金曜日 17:00

定時を迎えたオフィスではあちらこちらから「お疲れ様でした」のやり取りが聞こえ始める。
私、有中 結が所属する経理課は、あまり残業の多くない部署だ。
バレンタイン前日の金曜日とくれば、早く帰りたい者も多いだろう。
いつもよりも早いスピードで次々に退社していく。

部内の人数が減る度に、私の鼓動は速く大きくなっている。
膝の上で拳を握りしめると、冷たく湿めった感触がして、手先を温めるかのように何度も手をさすった。
手をさすりながらも、視線は鞄の中に入っているチョコレートと斜め前に座る彼を行ったり来たりするし、脳はシミュレーションを始めるしで、自分では制御出来ない。

彼にチョコレートを渡すことを決意してから、どうやって渡すかをずっと考えていた。
私と彼は会社の後輩と先輩で、それ以上でも以下でもない。
会社以外で会うことはないから、チョコレートを渡すのは必然的に社内になる。
もし、社内の人に見られてしまったら、噂になるだろう。
そうなれば、彼に迷惑をかけてしまうかもしれないし、私だって恥ずかしい。
出来れば2人きりがいいが、人の多い社内で2人になれるのは終業後、人が少なくなった時ぐらいだ。
もし、運良く彼が最後まで残っていたら、彼の席まで行ってチョコレートを渡す。
まだ社員が残っていたら、彼が会社を出たところで声をかけて渡す。
もしもの事態を想定して、他にも何パターンも考えている。

ふと、パソコンを閉じたような音が聞えて、慌てて斜め前の彼を確認する。
彼はまだパソコンに向かっていた。
その時がまだ訪れないことに安堵していると、彼はパソコンに向けていた顔を上げ、椅子の背もたれに左腕をかけた。
彼が後ろを向きそうな気配を察知して、急いで視線を自身のパソコンに戻した。
心臓がバクバクと鳴っている。
胸に手を当て、深呼吸をして落ち着けと言い聞かせた。

しばらくして、鼓動が落ち着いてきた頃、私と彼以外に残っていた最後の社員が退社した。
ついに、フロア内には私と彼だけになった。
緊張がピークに達して、全身に鼓動が響く。
行かなきゃと思えば思う程、動けなくなっていく。
やがて、彼も帰り支度をして、私に「お疲れ様。」と声をかけると、フロアを出て行った。

机の下で拳を強く握りしめて、勇気を奮い立たせる。
握った拳を振り下ろし、その勢いに任せて立ち上がり、チョコレートが入った紙袋をかばんから丁寧に取り出した。
そんなに重くはないはずのチョコレートが、やけに重く感じる。

震える足をなんとか動かし、先輩の近くまできた。
息を深く吸って、声を出す。

「せんぱっ……ぃ…………」

「たなかぁぁーーーーーー」

私の声は、斜め前の席の彼、田中さんを呼ぶ男の人の声によってかき消された。
一瞬こちらを向きかけた彼は、声のした方へ身体を向ける。

彼を呼んだのは、彼と同期で営業部の谷口さんだ。
よく一緒にいるのを見かけるから、もしかしたら約束をしていたのかもしれない。

谷口さんは、私に気付いた様子はなく、話を続ける。
「田中にしては早いじゃん。もしかして、デート?バレンタインイブだもんなっ!」
「まあ、そんなとこ…かな。」
そう言って、田中さんは前髪を触りながら恥ずかしそうに目をふせた。

彼女、いたんだ…。
そう認識した瞬間、胸が締め付けられるように痛んで、息が詰まった。
足と床がくっついたかのように身体が重かったが、この場から居なくなりたいその一心で、足を動かせと命令を出し続けた。
漏れそうになる嗚咽と涙を懸命にこらえながら、デスクに戻った。
そして、紙袋を隠すように鞄の奥底に詰め込んだ。
彼にチョコレートを見られたくないのもあるが、何より自分が見たくなかった。
詰め込まれた紙袋は、シワシワになっている。
でも、そんなことはどうでもよかった。

もう、渡す人はいない……。
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