Crazy for you ~引きこもり姫と肉食シェフ~
生活に困っていないのだから、このまま香子のゴーストライターを続けることに異論はない。
それでも──溜息は漏れた。
ふと、時計を見上げる。
「あ、もう行く時間……」
十時半をさしていた、身支度をしてLe Bonheur(レ・ボナー)へ向かわなくては。
カーキ色のワンピースに着替えて、樹脂製パンプスを履いて家を出る。 十月、天気のいい日はまだ日差しは夏の名残を感じる、太陽を眩し気に見上げて莉子は歩き出した。
*
今日も尊の視線を浴びながら食事を摂る。 前に仕事に戻ったら、と勧めたが、早めに来て仕込みは十分してあるから他の者でも大丈夫、と莉子が食事をしている30分程の間、尊は莉子の前の席に座って嬉しそうに莉子を見ている。 さすがに莉子も少し慣れてきて、尊との会話を楽しむようになっていた。
「……わ、これおいしいです」
付け合わせのサーモンと大根を巻いたものを味わった。
「酢漬けだよ、少し甘みを多くしてね」
「酢漬け……そんなに酸っぱくないですね」
「りんご酢だからかな?」
「りんご酢かあ……」
買ったことないな、などと思っていると。
「明日一緒に作る?」
「うん」
店が休みの日は、尊が莉子の家に来て作っていた。その流れかとそう返事をしたが。
「じゃあ、うちおいでよ」
「──えっ!?」
出逢って二カ月ほど、まだ尊の家にはお邪魔したことはなかった。
「で、でも……!」
尊の家に、いや男の家に上がった記憶など皆無だ。そもそも他人の家に上がったことすら、莉子には遠い記憶だった。
「材料もうちになら揃ってるし」
莉子の家に行く前日に買い物メモを渡される事もある、莉子はそれを買ってから帰宅するのだが。
「でも……っ」
「嫌ならいいよ。花村さんちに行くから」
あっさり言われて。 莉子は首を左右に振っていた、嫌なのではない、嫌ではないから、そうしたのだが──。 何故だかやたらソワソワ、ドキドキしてしまう。