うそつきす -嘘をついたらキスをされる呪い-

***

 買い物も終わり浮島と共に駅前通りに出た時である。

「佳乃ちゃん、あれ見て」

 前を歩いていた浮島が足を止めて、前方を指さした。

 見やればそこにいるのは、菜乃花と――八雲だ。
 八雲は駅前のベンチに腰かけて普段通りだが、菜乃花は笑顔で、それは佳乃も見たことのないような幸せそうな顔をしていた。

 その光景を視界に捉えたことで菜乃花は八雲のことが好きなのだと思いだす。きらきらとした菜乃花の表情には間違いなく好意が滲んでいた。
 言葉を失う佳乃の代わりに浮島がぼそりと呟く。

「菜乃花ちゃん、オンナノコって感じ。もしかして、そういうこと?」

 佳乃は答えることができなかった。浮島の手を引いて、駅前通りの花壇の影に隠れる。菜乃花の邪魔をしてはいけないと思ったのだ。


 そして二人が隠れてすぐ。一台の赤い車が路肩に止まった。

 その車は見たことがある。北郷家に遊びにいったときに見たことのある、蘭香の車だ。
 蘭香がくるやいなや八雲は立ち上がる。菜乃花にお辞儀をし、それからあっさりと蘭香の車に乗りこんで去っていった。

 菜乃花はそれをじっと見つめていた。八雲が車に乗りこんでも、車が動きだしても、普段通りを装い、しかし視線は常に車内にいるだろう八雲を追いかけている。


 その車の姿が見えなくなってから、ようやく菜乃花の時間が動きだした。
 張り詰めた糸が切れてしまったかのように、がくりと道端に座りこむ。

「……浮島さん。荷物、ここに置きますね」

 浮島の返答を待たず佳乃は荷物を道に置き、それから駆け出した。
 大切な友達が、菜乃花が泣いている。そう思ったら、止められなかった。

「菜乃花!」

 近づけば、菜乃花の周りにはぽたぽたと黒いしみができていた。声をかけると菜乃花は顔をあげたが、その頬は涙で濡れている。

「よ、佳乃ちゃん……どうしてここに。まさか、見てたの……」
「ごめん、見てた!」

 嘘はつけない。あっさりと覗き見を白状しつつ、座りこんで呆然としている菜乃花を抱きしめる。

「わ、わたし、史鷹さんが、」
「うん。気づいてた。菜乃花の好きな人なんだ、よね」

 佳乃が言うと、菜乃花が佳乃の腕を強く掴んだ。そして佳乃の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。

 切ない呻き声に、ぽつぽつと菜乃花の言葉が混じる。まるで堰き止められていた感情が少しずつ決壊して漏れていくかのように。

「あきらめているわ、こんなのだめだってわかっているの。でも、好きになってしまったからどうしようもないの」

 佳乃の腕の中にいるのは菜乃花ではなく、『好き』という感情の塊な気がした。それは純度が高く、幼さを捨てなければ飛び込めない棘だらけの世界。菜乃花はその中に裸足で踏みこんで、そして泣いているのだ。

 ここまで強く誰かを想うことが――佳乃にはできるだろうか。佳乃が抱いている片思いはもっとふわふわきらきらとした綿菓子でできていて、菜乃花の世界とは違う気がしてしまう。

「ただ見ているだけで、史鷹さんを応援するだけでいい。それで満足なの。今日だってそう、お姉ちゃんと史鷹さんの待ち合わせに偶然通りがかっただけよ――でもその偶然に、私は」

 途切れた言葉の先は、佳乃が見た菜乃花の表情が語っている。その偶然に幸せを感じたのだろう。見ているだけでいいと言いながら、しかし神様が手を差し伸べたような偶然に感謝し、幸福を噛み締めたに違いない。

 でもそれは――菜乃花を傷つけていくだけなのだろう。近づけばその分だけ棘は肌に食いこんでいく。幸せを味わいながら、しかし体は蝕まれていくのだ。

 手の届かない、好きになってはいけない人。姉の婚約者に惚れてしまった菜乃花は、どれだけの幸福を味わおうが、けして結ばれる奇跡に辿り着けない。史鷹に近づけば近づくほど、傷が深まっていく。

「……菜乃花は偉いよ。がんばってる」

 好きな人に、他の好きな人がいる。それを知りながら、菜乃花は史鷹を応援しようとしているのだ。剣淵と史鷹を合わせる計画も、菜乃花は史鷹のために協力したのかもしれない。

 優しく頭を撫でた瞬間、菜乃花はより一層声をあげて泣いた。

「佳乃ちゃん、ごめんね……でも辛いの、こんな風になるなら史鷹さんを好きになりたくなかった」


 好きな人と結ばれることは奇跡なのだと語った菜乃花は、佳乃が知らなかった失恋の辛さを知っていた。

 ここまで傷つき、苦しめられることも恋なのだとしたら――佳乃の脳裏に浮かんだのは、もう一つの失恋だった。菜乃花を抱きしめているはずが、どうしても彼の顔を思い出してしまう。

 夏、あけぼの山からの帰り道。『お前が伊達を好きなのは知ってる』と告げた、あの時は見ることのできなかった表情が、いまははっきりと想像できてしまうのだ。


 剣淵を苦しめている。失恋とはこんなにも辛くて、切ないものなのだ。

 泣き崩れた菜乃花の姿は、佳乃の知らなかった失恋そのものだった。
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