恋じゃない愛じゃない
「野菜ドリアとビーフシチュー、出来上がりました。お願いします!」

そして、その数多くのメニューの中で、野菜のドリアとビーフシチューも店の人気メニューである。ドリアはホワイトソースとたっぷりのチーズの下にパプリカやブロッコリーなどたくさんの種類の野菜が隠れている。ご飯はあっさりとした味付け。ビーフシチューは、パンかご飯か選べて、ご飯にすると雑穀米になる。雑穀も女性やダイエッターに人気でわたしも好き。実はドリアにもわかりにくいが雑穀米を使っている。

ごろごろ入った野菜、じゃがいもは小さめのを丸ごとのまま、肉にしっかりと絡んだ、焦げ茶色に輝くデミグラスソース。デミグラスソースやビーフシチューはお店によって赤っぽかったり茶色かったりして、味もだいぶ違うが、わたしは真っ黒で苦味のあるようなオトナっぽい味のものが好みだ。

キッチンとホールをスタッフが行き来する。

「ドリアとビーフシチュー、何番テーブルだっけ?」

「8番です」

飲食店では、テーブルごとに名前や番号がついている。商品を運ぶ際にテーブルがわからないとお客様への提供が遅れてしまうし、商品によっては、熱いものは冷めてしまい、アイスなどはとけてしまい、ドリンクの氷もとけてしまい、商品のクオリティーの問題にも繋がるし、テーブルを探すのに夢中になって、ほかのお客様とぶつかってしまったり、商品を落としてしまうこともあるのでスタッフは配席図が頭の中に入っている。

「ああ……、“ベーキン”の席ね」

わたしからは死角だったけれど、端を見やると、お決まりの場所に“彼女”はいた。まるで店内にあふれる目がまわるような種々雑多な人間の群れに決して触れられぬよう、少しでも距離をとろうとするかのごとく、最奥のテーブルに、しかし、ほかの席や店内が見えるよう、壁を背にして座り、カトリックのお祈りみたいに手を胸の前で組み合わせている。

そして、ああ、やっぱり、その視線はぴったりと、陽央くんに固定されているのだった。とても甘ったるい視線。

彼女が陽央くんに夢中になっているうちに、わたしたちも彼女をウォッチさせてもらう。フリルのたっぷりついた丸襟のシャツに、小花柄のAラインスカートはこれまたフリルがたっぷり仕込まれている。ふくよかな彼女の占有面積が、フリルのお陰でさらに増えてしまっているのをスタッフは、口々に「雪だるま」「ドラえもん」 「ウエディングケーキが歩いてるみたい」「むしろバーガー」と言い表した。

年齢不詳。 お祈りスタイルで陽央くんの姿を目で追い続けている。いつも独り。3ヶ月前から。驚くことに、彼女は、陽央くんがシフトの日は全部顔を出していた。その執念はすさまじいものがある。

なぜ“ベーキン”かと言うと、彼女の体型が“ベーキングパウダー”を入れたかのように日に日に膨らんでいくのと、服装に負けないくらい目立つピンク(ローズショッキングと言うらしい)で金金具の“エルメスのバーキン”をいつも大事そうに持っていることかららしい。

ともかく、スタッフ達の間で彼女のコードネームは「ベーキン」で決まった。

べつに彼女は当初から変わったお客様と認識されてるとはいえ悪いことはしていないので、スタッフ達も彼女をいじめようとは思っていないらしい。でもそれだからと言って、からかっちゃいけないわけじゃない、といった感じ。わたしもとくにからかう気があるわけではない。
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