小さな傷
丘村塔子(オカムラ トウコ)の場合
「なによ!」
「なんだよ!」

また、ケンカ、もう弘樹とは付き合って2年にもなるのに、いつもケンカが絶えない。

いい加減「違うんじゃないか」って思うこともしばしば。

大抵その要因は「結婚」の二文字。

私も今年29歳(今は28歳)になる。

アラサーと呼ばれる年齢となり、周りもそれなりに片付く人も出てきて、自分では自覚していないつもりなのだが、気持ちの中には焦りがあるのかもしれない。

だから、そのことが出るとついケンカをふっかけてしまう。

いい加減弘樹も嫌気がさしていると思うけど。

なのに別れない。

少なくとも、弘樹から「別れよう」と言われたことは一度もない。

私が弘樹だったら、こんなに融通の利かない、それでいて口うるさい女と毎日のようにケンカをしていたら、いい加減「別れたくなる」

なのに弘樹は私と別れない。

こんな私のどこがいいんだ?

出会いは2年前、高校の同窓会
高校時代は一度も同じクラスになったことはなかったから、お互いのことはほぼ記憶になかった。

たまたま二次会で同席した時、(おそらく)初めて話した。

意外にも、趣味(映画)の話が合い、お酒の勢いも手伝って来月封切られる新作映画を観に行くことになり、連絡先を交換した。

その間十日ほど、毎日メールのやり取りをして、お互いの人となりを少しずつ知るようになった。

映画当日は、もうすっかり“昔からの友達”になっていた。

映画を観終わったあと、食事をしながら感想を述べ合うと驚くほど観方が似ていて話しているうちに『もしかしたら、運命の人?』と勝手に思い始めていた。

28歳という年齢が、思い込みをなお一層深めたのかもしれない。

その日からほぼ毎週末に会うようになり、映画だけでなく、いわゆる“デート”をするようになった。

「塔子さんて映画が本当に好きなんだね。」
「木田君こそ、こんなに映画に詳しいなんて知らなかったよ。」

「なんか不思議だよね。高校時代はお互いに存在すら知らなかったのに、いつの間にかデートしてる。」

「え?デート?」
「え?デートじゃないの?」

「デートか。」
「デートでしょ。」

そう言うと弘樹は、にこりと 笑った。

“デート”を始めて2ヶ月経った頃、私たちにとって

“初めての日”

を迎えた。

いつものように夕食を終えて、店を変えて飲んでいた時に弘樹から水を向けられた。

「明日は休みだね。」
「ほんと、やっと週末、今週はしんどかったぁ。」

「なぁ。」
「ん?」

「うちに来ないか。」
「え?いつ?」

「今から。」
「え?あ、あっ…、うん。」

もちろんその誘いの意味はわかってはいた。

付き合って2ヶ月、時期的にも早いとは思わなかった。

私も28歳、高校時代から彼氏はいたし、弘樹の前に3人と付き合ってたから
それなりに経験はある。

でも、少しだけ考えた。

今までの彼氏とも、付き合い方は真面目だった。

つまり、先のことも視野に入れて考えてはいたが、(単刀直入に言うと)エッチする前に
『打算的なこと』を考えることはなかった。

今回はアラサーという年齢がそう思わせたのかもしれない。

ズバリ『結婚』を意識した。

たぶん、エッチの相性が合わなかったら今後の付き合い方を考えていたと思う。

そして、弘樹の意識もちゃんと確かめておきたかった。


弘樹の部屋は、男の一人暮らしの割には意外と整頓されていた。

「ビールでいい?」

冷蔵庫から缶ビールを2本を出すと1本を私の前のコタツ兼テーブルに置いた。

自らも座ると、缶ビールを開け、こちらに乾杯の仕草をして、グビグビと音を立てて飲み始めた。

「あのさ…。」

私から口火を切った。

「弘樹はさぁ、結婚のこととか、考えたことある?」
「え?結婚?」

「そう、結婚。」
「あ、んー、なくはない。」

「じゃあ、あるんだ?」
「そりゃ、俺だって何人か付き合ったことはあるし、その人との結婚を考えたことはあったよ。」

ちょっとだけ、イラっとした。

私も弘樹の前に3人付き合った人がいたくせに、弘樹が“何人か付き合った”と聞いた瞬間、勝手に想像して弘樹が私より美人な女と楽しそうに手をつないでデートしている場面が浮かんだ。

「じゃあ、私とも結婚について考えてくれている?」

バカだ。いきなり重すぎ…

「え?いきなり?」

そりゃそうだ。

「だって、こうやって家に誘ったってことはエッチしようとしてるわけだし、その先には結婚もあることをちゃんと考えて誘ったってことでしょ?」

何言ってんだ私は…。

「え?いや、まぁ誘ったからには真剣に付き合っていこうという気持ちがあるからこそであって、決していい加減な気持ちで誘ったわけではないけど…。」

弘樹、真面目。

「けど?けどなによ。」
「いや、けどじゃなくて、誘ったわけではな…い。」

「当たり前でしょ、いい加減なんてありえない。私はその先のこと、結婚について聞いてるのよ。」

私、けっこう酔ってるかも。

「結婚は…まだ、ちょっと…。」
「じゃあ、しない。」

「え?え?」
「エッチしないって言ってんの!!」

そう言うと私は、目の前の缶ビールを開けると一気に飲み干して、勝手に弘樹のベッドを占領して寝てしまった。

きっと弘樹は相当呆れたことだろう。

これが私たちの

“初めてのケンカした日”

だった。

世間でいうケンカと違うのは、いつも私からの一方的な攻撃で、弘樹はなすすべもなく巻き込まれて、言い返す間もなく、時間の経過を待ち、日付変更線をまたぐか、私の機嫌が自然治癒するのを待つしかない。

その後、もう少しシラフの時に私たちは結ばれたが、その後も結婚のことを中心に仕事のこと、その他日常のあらゆることをきっかけに“ケンカ”をふっかけ、それを受けた弘樹は、ただ頭上の嵐が過ぎるのを待つしかなかった。

そして冒頭の場面になるのだが、付き合い始めて1年、流石に最近は弘樹もただ嵐が過ぎるのを待つだけでなく、理不尽と感じたことには、反論をするようにはなっていた。

「だいたいどうして、トイレに手拭きタオルを置かないのよ。」
「だから、トイレの中では手を洗わないで洗面所で洗うからだよ。」

「だからそれが汚いって言ってんの!」

要はこうだ。

私はトイレで用を済ますと水洗トイレの蛇口から出る水で手を洗うため、そこに手拭きが必要でタオルを置きたい。

私はトイレの内と外では空気そのものが違っていて、トイレの中は“不浄”として、そこでの汚れはそこで落とし、外の世界には持ち出さないことを原則としている。

一方弘樹は、トイレの水洗では石鹸を使えない(使うとタンクに貯まった水が濁りタンクにも悪影響が出る、と信じて疑わない)から水だけで洗うのは不潔だからちゃんと洗面所で石鹸で手を洗う。そのためトイレの中にはタオルは必要ない、と言う。

端から見たら本当に“どっちでもいい”ことだが、当人たちは至って真面目に議論していた。

でも、こんなことでしょっちゅうケンカをしている、いや、ほとんど9割は私がいちゃもんをつけて、ふっかけているのにどうして弘樹は私と別れたい、と言わないのだろうか。

「弘樹。」
「ん?」

「あのさ…。」
「うん。」

「どうして弘樹は私と別れないの?」
「え?え?塔子は俺と別れたいの?」

「あ、いや、そうじゃなくて。ほら、私たちって会うとケンカばかりで、ここ半年くらいはケンカしていない日のほうが少ないくらいだと思うの。」
「……。」

「いい加減、嫌にならない?」
「塔子は嫌になってる?」

「え?私は…嫌になる権利がないっていうか、ほとんどは私がケンカを始めてるから、言える義理じゃないし。」
「その自覚はあるんだ。」

弘樹はにっこりと笑い、嫌味なくそう言った。

「そりゃ、私だってバカじゃないんだから、それくらいの自覚はあるわよ。」
「……。」

「だから、なおさら弘樹は嫌にならないのか世の中にはもっと素直でかわいい女の子が山ほどいるのに、そっちに目移りしないのかって思ってる。」
「充分…。」

「え?なに?」
「充分、素直だよ。」

「え?…。」
「素直っていうのは、自分の心に正直だということだよね。つまり、自分の気持ちを包み隠さず表現するってことでしょ。」

「……。」
「そう捉えるなら、塔子ほど素直な人はいないんじゃないかな。」

「……。」
「そして、俺はその世界で一番“素直”な塔子が好きなんだ。」

「弘樹…。」
「だから、俺から別れるなんてありえない。いや、塔子が別れたいって言っても別れない。」

「それじゃストーカーだよ。」

言いながら涙を流していた。

ウルウルの私を抱き寄せると優しく私の頭をポンポンとしてくれた。

こだわっていたのは自分、おそらく、仕事の場でも、弘樹以外の友達や知り合いと接している時でも“いい子”でいようと意識していた。

なるべく人には迎合して波風を立てず、無事にその時間が過ぎればいい、ずっとそう考えて生きてきた。

だから、その反動で心を許していた弘樹に甘えて、つっかかっていたのだと思う。

すべて弘樹には見抜かれていた。

こんなひねくれ者の私を何の条件もなく受け入れてくれている。

「結婚したい。」

心からの素直な気持ちで言ってしまった。

「え?え?逆プロポーズ?」
「そう。ダメ?」

プロポーズは男の人がするものなんて、世間の勝手な思い込み。

本当にそう思ったから素直にこの言葉が出た。

弘樹はにっこりと笑って私の手を取ると

「よろしくお願いします。」

と言って深々と頭を下げた。
< 4 / 36 >

この作品をシェア

pagetop