放課後の準備室、先生と。
予鈴

告白





 例えば世界が滅ぶといわれても、多分私は驚かない。何故ならそれは、あり得ないから。

 実際人間の大半はそうだ。事件や事故のニュースをみて、きいて、それを自分と重ねる人の方が少ないと思う。かくいう私もそのくちで、酷いな、とか可哀想、なんて思うだけだ。

 多分私は、遠い世界の出来事のように捉えていたのだろう。無理もない。誰がその辺の道路を常に落とし穴じゃないかと疑う?

 私の脳裏に今あるのは、昔読んだ少女マンガ。主人公の女の子が先生に恋する話。

 しかし事実は小説よりも奇なり、とはよくいった。

 「ねえ、レイ」

 先生、___名を垂水彼方《たるみかなた》という___は、頭上から柔らかい声で私を呼ぶと、続けて私の髪を一房とって、こう言った。

 「君のことが好きだ。良ければ僕と恋愛しない?」

 その瞳のあまりの真剣さに、私の意識はいろいろ飛んでいってしまっていたが、今ようやく正気を取り戻した。

 ___ひとまず、整理してみよう。

 放課後の理科準備室。私を呼んだのは部屋の主兼担任の先生。確か、そう、話があるといっていた。私は何だかんだで学級委員を仰せつかっているし、きっとクラスのことで何か相談があるのだと思って、ひとつ返事で頷いたのだ。

 そして部屋に入るや否や、やたらと豪華なソファーに押し倒されて、告白。

 「わけわかんないです……」

 今の私には、そう答えるのが精一杯。

 先生は整った顔を微かに歪めて、どこか不機嫌そうに問い返した。

 「何が?」

 「何もかも、です。何でこんなことになってるのか、とか、先生が告白してきた理由とか」

 だいたい、と私は続ける。

 「今日会ったばかりじゃ無いですか」

 何を隠そう、先生は今日この浜名高校に赴任してきたばかりだ。始業式、産休をとることになった教師の代わりとしてやって来た、いわばほとんど初対面。なのに、私のことが好き?

 「冗談でも、面白くない」

 「勝手に冗談にしないでもらえるかい? 僕は真剣にレイに告白したのに」

 先生は言いながらゆっくりと私から退けていく。そして白衣を翻すと、わざとらしいため息を漏らした。

 「恋をしたのに理由とか、レイはどうしてそうも真面目なんだろうね」

 「だって……私は先生のことを何も知らないんですよ」

 「何も知らない?」

 先生は振り向くと驚いたように、二度、瞬きをした。

 「……もしかして、何処かで会ってます、か?」

 「いや、……うん、確かに初対面だ」

 ならばやはりおかしいだろう。ろくに話もしたことがない、教え子のことを好きになるなんて。

 「レイは一目惚れされた、とか思わないの?」

 「えっと……そうなんですか?」

 「……」

 先生の顔が呆れている。その顔をしたいのはむしろ私の方なのに。

 もし一目惚れならそれは、顔だけで好きになったと言われているようなものではないだろうか。無論そんなことをされるほど容姿は良くないので、嘘だとは思うのだが。

 「まあ、経緯はおいといて、君を好きな気持ちに偽りはないよ」

 「そんなこと言われても……先生のこと何も知らないですから、お断りするしか」

 第一教師と教え子の恋なんて実らないのが常なのだ。そもそも社会的に先生の立場が危うくなる。そこまでして先生と共に過ちを犯せるほどの恋情なんて、多分私は、好きになってもやらない。

 しかし先生は違うらしい。

 「何も知らないから断るなら、僕のことを知ってくれたら答えてくれるのかい?」

 先生の目が、怪しく光る。先程の優しい雰囲気はいつの間にか消え去って、代わりに先生は切れ長の瞳に欲を宿して私に近寄る。

 思わず一歩ずつ後ずさってしまうが、背中にひんやりと冷たいものが触れたとき、私の逃げ道は塞がれたことを知った。これ以上の抵抗は無駄だとでも言うように、その壁はやけに冷たかった。

 目の前には先生。背後に壁。逃げ道がないこの状況を本能が不味いと告げている。

 「レイ」

 ただ名を呼ばれただけ。それなのに心臓が暴れだす。

 先生は壁に片手をつくと、言った。

 「僕と一ヶ月だけ、付き合ってよ」

 「……はい? 嫌、」

 「とか言わないでよ? これは君のために提案したんだから」

 それからふっと目を伏せて、私の髪を細い指に絡めると、先生は愛しそうに、浅く口づけた。

 それは、一途なまでの恋心。

 「レイがもし本当に断るなら、キスするけど、いいの?」

 キス。大丈夫、相手は先生だ。いくらなんでもそんなこと_____

 「ふうん、本当にしてもいいんだね?」

 ……どうやらそれは、私の現実逃避に過ぎなかったらしい。先生の顔が、ゆっくり近づいてくる。私と先生の息づかいが生々しいくらいにはっきりと耳に伝わる。

 「つ、つきあって、なにが変わるんですかっ?」

 唇が触れるまであと数ミリ。私は最後の足掻きを試みた。

 先生は唇を面白そうにつり上げて、分からないのと問い返してきた。

 「付き合ってなにが変わるのか、本当に分からないの? 学年トップの成績の君が」

 「なんで、そのこと……というか、勉強とは、別ですよ!」

 嘘だ。本当は分かっていた。先生が提案してきたのはつまり、互いを知る期間を設けよう、と言うことだ。

 だが、理解と納得は別物だろう。だから、ここは惚けるしか____

 「これで最後。……キスされてもいいの?」

 いや、やっぱり駄目だ。たかが一ヶ月先生と付き合うのと、初めてのキスを奪われるのは重みが違う。好きでもない人にキスされるのは、絶対にいやだ。

 「わ、わかりました、付き合いますから、離れてください……!」

 先生の望み通りの回答をしたはずなのに、先生はつまらなさそうに分かったと口にした。この人は一体どうしてほしかったのだろう。

 てっきりすぐに退いてくれると思ったのに、先生はそのまま、動かない。

 「うん……彼女なら、いっか」

 「え……? 何かいっ、」

 最後まで言えなかったのは、私の唇が先生によって塞がれたから。ほんの一瞬、瞬きほどの間。先生があまりにも自然にしてくるものだから、一瞬気のせいかと思ってしまった。

 けれど、私の唇が熱いのは、先生のせい。____火傷しそうなくらいに、熱い。

 「ん……レイの唇って、柔らかいね」

 何てことないふうに評価してくる先生の唇につい、目がいってしまって、先程のキスがやけにリアルに蘇る。薄い唇が重なるようになったときのことを____

 カッと熱くなった頬を隠すように、私は先生を突き飛ばした。突き飛ばした、なんていっても、実際は先生は僅かにたたらを踏んだだけだったが。

 「レイ?」

 優しい笑みを浮かべるこの人は悪魔だ。最低な先生。

 「先生のことなんて……っ、嫌いですから」

 脈絡なんてまるっきりない宣言。それから私は逃げるように部屋を出た。出来るだけ先生より遠くにいって、何もかも忘れ去りたかった。

 だから先生が、寂しそうな顔をしていたことになんて気がつかなかった。

 「必死になって探しだしても、君はそういうことを言うんだね」

 そんなことをポツリと呟きながら。



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