放課後の準備室、先生と。

放課後

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 重い足取り、という言葉がある。今の私がまさにそれだ。

 準備室まで歩いて三分。ゆっくり行ってそれなのだから、考え事をしてるとあっという間だ。

 朝、何気なく回せたドアノブが、今はとてもじゃないが、回せない。この扉の奥に恐らくいるであろう先生と話すのが、怖い。

 数分躊躇って、深呼吸をして__ドアノブを、回す。

 「失礼します」

 先生は、デスクに座ったまま動こうとしない。そのうちに扉が閉まって、密室になる。

 息が、苦しい。

 しばらく扉の前から動かずにいると、先生は読んでいた本を閉じて立ち上がった。ちらりと見えた栞は、かすみ草の押し花だった。

 あれ、私、あの栞知ってる__

 一体どこで見たのか、思い出すよりも先に先生が声をかける。

 「なんで呼んだか、分かる?」

 諭すような口調だった。でも、数日とはいえ、この学校の誰よりも先生と接している私には分かる。

 先生は、間違い無く、怒っている。それも、とても静かに。

 「わからない、って言いたいところですけど……はい」

 「そ。じゃあ、思い当たる節を言ってみて?」

 先生はいつかの日と同じように、私の逃げ道を塞ぐようにして立った。距離が近い。先生の長い睫毛まで、はっきりと見える。

 「佐藤に、手を、握られてた、こと……」

 私が途切れ途切れにそういうと、先生は無表情で、

 「あとは?」

 と、問い返した。

 「え、あと……? えっと……」

 あと、先生が__彼氏が、見たら不機嫌になること。

 「その手を、振りほどけなかったこと……?」

 「うん、理解してるならいいんだけど」

 いい、という割には、やはり先生は不機嫌そうだ。

 でも、私だって頑張って振り解こうとはしたのだ。もっというなら、佐藤は先生と話し終わったあと、思い出したように手を離した。

 「……いくつか、聞いていい?」

 拒否権なんて大それたものはない。なにせ、この事態を引き起こしたのは紛れもなく私で__だから、私には説明する義務と責任がある。

 私が先生をまっすぐ見ると、先生は準備室に入ってから初めて、優しく頬を緩ませた。ふわっとした、柔らかい笑みだ。

 だがそれも一瞬のことで、すぐに先程同様に、不機嫌そうな、無表情じみた顔になる。

 「まず、理由を聞かせてもらえる?」
 
 「それは、走ったときに掴まれたんですけど……」

 「なんでそんなことになったのかな」

 「佐藤って、ほら、人気者ですから……なんていうか、一緒に歩いてると、視線が痛くて。そしたら、あっちから行こうって言われて手を掴まれて、そのまま走って、それで……」

 ふうん、と、聞いてきた割には興味なさそうに先生は相槌を打つ。

 「あ、あの、でも、ほんとにやましい事は何もないですから」

 慌てて言ってから思った。これではまるで、先生に嫌われるのが耐えられないみたいではないか。

 つい一週間前まで、嫌われてもいいとすら思っていた人なのに。

 先生もそれに気づいたのか、微かに瞳孔が開く。そして、すっと目を細めて、囁く。

 「君と佐藤は、どういう関係なの」

 「私と佐藤、ですか? ただの、クラスメイトですけど__」

 「レイは、佐藤がただのクラスメイトの手を、いつまでも握ってたって本気で信じるの?」

 何がいいたいかわからなくて黙ると、先生は露骨にため息を漏らす。

 「……僕は、奪われる心配もしないといけないわけね」

 「奪われる心配……?」

 そんなもの、杞憂ではないだろうか?

 「レイの鈍感さには、少なからず佐藤に同情を覚えそうだ」

 苦笑をこぼすと、先生は私の髪に指を通す。私が唯一手入れに手間と時間を惜しまない場所だ。指は、引っかかることなくするりと黒のカーテンを滑り落ちていく。

 「ええっと……」

 「まあ、こういうのは僕の口から言う事じゃないから」

 髪を束ごと掴まれて、背中に流された。その指で、ブラウス越しに鎖骨をなぞられる。

 「ここ……結局、どうしたの」

 先生の指は、昨日刻まれた印のところで、止まっている。

 「なんとか、化粧して隠しました」

 「そのままには、してくれなかったの」

 「だって……聞かれたら誤魔化せる自信ないですし……」

 だけど、その結果意識がここに向かってしまったのは、言うまでもない。

 授業中、休み時間、片時だって先生を忘れられなかった。

 今、本人を見ると余計に意識してしまう。心臓が必要以上に働いて、まともな思考は奪われる。

 熱が、ゆるりと回って冷めないのだ。

 先生はしばらく私を見つめて、笑った。

 「レイが少しは僕のことを考えてくれてるってことがわかっただけ、マシかな」

 頭を軽く撫でると、先生は私の手を掴んで、重ねた。

 「……先生?」

 そう呼ぶと、先生は不機嫌そうな顔を見せた。

 「二人きりの時は、彼方さんがいい。これから先ずっと」

 ねだるように、まっすぐと。先生は甘えたように囁く。

 それに直接は答えずに、私は先生の手を握る。

 男の人にしては、繊細で細長い指。綺麗に整えられた爪から、先生の性格が見える。

 「……もうすぐ、秋祭りがあるの、知ってますか?」

 先生は頷く。

 「その日が、ちょうど一ヶ月後なんです。……先生への答えを、そこまでに出しますから。もう少しだけ、待っててもらえますか」

 嫌いじゃないと言ったのは、嘘じゃない。好きなのかはまだわからないけれど、私の先生への気持ちは、確かに変化している。

 つまるところ、私は恋愛経験が少ないゆえに、単純で扱いやすいのかもしれない。

 「じゃあ、その日まで我慢しておく。……楽しみだなあ」

 先生は嬉しそうに笑うと、私に寄りかかる。吐いた息が耳元にかかって、くすぐったい。身じろぎをすると、先生は、今度はわざと息を吐いた。

 「……っ、やめてください」

 「やっぱり耳弱いよね? いいこと知ったなあ」

 迫られた時にちゃんと拒みきれたら、先生は諦めてくれたのだろうか。もしそうなら、私はきっと、こんな悩みを抱えることもなかったのだろう。

 「あの、用が済んだなら帰ります」

 クーラーで少し冷えた腕を軽くさする。思っていたよりも長居してしまった。

 「……もう帰るの?」

 切なげな瞳は、置いていかれそうになる子供のようだ。

 「勉強しないと、いけないので。それにいくら夏でも、少し寒くて」

 言い切った時には、先生の腕の中だった。白衣から香る煙草の匂いが、無性に懐かしい。

 かすみ草の栞と、煙草。初対面だと言ったら先生が驚いたこと。

 __やっぱり、どこかで会ってる。

 先日の疑問が、確信に変わった。

 「嫌だ。帰らないでよ」

 「わがまま……言わないでください……」

 「もう少しだけ、そばにいて欲しい」

 断るべきだと、理性は叫ぶ。

 でも、仮初めだとしても、この人は彼氏だから。今だけは、私のものだから。

 そんな言い訳をして、先生の背中に初めて腕を回した。

 先生は、ただ無言で、抱く力を強める。

 「……好きだよ、レイ」

 先生の背中は、儚い印象とは裏腹にしっかりしていた。



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