放課後の準備室、先生と。
補習
ハロウィン記念に久しぶりに一本書きました。設定を全て無視してパラレルワールドと思っていてください笑
□
時に人生というのは、難題を出してくる。
「トリックオアトリート。……どっちがいい?」
放課後の理科準備室。差し込む西日を背にした先生の顔が、何か間違いが起これば触れてしまえそうなほど近くにある。私は目線をそっと逸らして、ブレゼーのポケットからラッピングされたお菓子を取り出すと、先生に手渡した。お化けやカボチャを形どった、アイシングクッキー。
先生は意外そうな顔をして、しばしその袋を眺めた。
「……手作り?」
「はい。先生がこうやって聞いてきた時のために、作っておきました」
するりと先生の横を通り抜けると、私はいつも通り、ソファに腰掛けた。鞄から参考書を取り出す私を眺めながら、先生は封を解いてクッキーを口にする。
「あ、美味しい」
その一言にほっと胸を撫で下ろす。昨日、レシピと睨めっこした私も報われたようだった。
十月三十一日。いわゆる、ハロウィン当日。どちらかと言えば仏教とか神道寄りであるはずのこの国は、しかしイベント毎なら見境ない。夏休みシーズンが終わってからというもの、仮装やら飾り付けやらがあちこちで売られているのを見かけた。例年通り、私はその商戦をぼんやりと眺めるだけの凡人のはずだった。もっと言うなら、昨日までは今日がハロウィン当日であるということすら忘れていた。
思い出したきっかけは、いたってシンプルだった。昨日のお昼休み、お菓子交換しようよ、とクラスで仲良くしている何人かに声をかけられたためである。
「……お菓子?」
「そ。明日はハロウィンだし、楽しそうじゃない? 明日の昼休みとかどう?」
ああ、と遅れて思い至った私は、いつも通り準備室で時間を潰してから、帰る途中でスーパーに寄った。もちろん、手作りするつもりなど微塵もなかった。なかったのだが――
スーパーで、ハロウィン限定パッケージになっている適当なお菓子を見繕っている私に、送られてきたメッセージ。美味しそうなカップケーキの写真と共に添えられた、作ったよの一言。あれよあれよと手作りお菓子の交換会へとシフトしていくのを、私には止める術がなかった。
そうして出来上がったのが、先生の手元にあるアイシングクッキーである。つまるところ、先生だけのために作ったわけではない。
こういうことは、あえて先生には言わないのだが。
「凄いね、手作りなんて」
躊躇いもなくもう一枚口にする先生に、私は緩く首を振って、
「でも別に、大したことはしてないですから」
「そうかな、この……アイシング、だっけ。これとか結構、難しそうだけど」
「生地を焼いて上手いことするだけですよ。意外と、なんとかなるもんです」
先生は私にマグカップを手渡しながら、感心したように息を吐いた。ふと私が開いていた参考書に視線を落とす。それが国語の参考書だとわかると、先生は露骨に不満そうな顔をした。理科教師である自分と対極の教科を、わざわざここにきてまで見ていることが心外そうだった。
秋風が頬を撫でる。参考書から顔をあげると、先生が窓を開けてちょうど煙草を咥えていた。ライターで火をつけ、気怠そうに校庭を見下ろしながら、ゆったりと息を吐いている。
先生が吸っている煙草の銘柄を、匂いを、もう覚えてしまった。そのくらい私はここにいたし、先生が煙草を吸う横顔を見ていた。私のところまで漂ってきた煙をすっと吸い込むと、まるで先生がすぐ横にいるような錯覚に陥った。
煙草は、喫煙者の身体も、その近くにいる人も、じわじわと蝕む遅効性の毒。不意に保健の教科書で見た真っ黒な肺を思い出し、ぶるりと身体が震えた。その毒を愛しそうに吸う先生も、それを少し離れて眺めている私も、解剖したらきっともう真っ黒な肺なのだろう。
「ごめん。煙、そっちにいっちゃったね」
視線を感じたのか、先生はふと振り返った。
「いえ、お気になさらず」
「レイはいつもそう言ってくれるけど、僕は気になるよ。……君に甘えてここで吸うのも、本当は良くないってわかっているんだけどね。嫌ならはっきり言ってね、吸わないようにするから」
とんでもない。私は慌てて首を横に振った。先生はそんな私を不思議そうに見て、また窓の外に視線を戻した。
私が勉強をして、先生が仕事をする。それがこの準備室で放課後に営まれる日常だった。先生はキーボードを叩き、授業の小テストを採点し、そして時折ふと顔を上げて、私を見て微笑む。先生は、私にとって、殆ど全ての存在意義だった。
一時間ほど勉強してひと段落ついたとき、先生はクッキーを食べながら私の横に腰掛けてきた。私は参考書から目を離し、先生を見た。彼は本当に幸せそうにクッキーを咀嚼している。
「――もし、そのクッキーに毒が入ってたらどうしますか」
なんて事のないもしも話。先生の喉が上下する。なおもクッキーを口に運びながら、彼はまるで世間話でもするみたいに言う。
「たとえそうだったとしても、僕は気にならないかな。ちゃんと全部食べるよ」
その瞳があまりにも純粋な輝きをしていたので、聞いた私の方が怯んでしまった。先生は、私が毒を入れてないとたかを括っているわけではなく、本当に毒が入っていても構わないというような顔をしていたから。
「気にならない、ですか」
「うん。こんなに美味しいお菓子を食べられて、その上で死ねるなら、全然構わないよ」
「――死ぬのに?」
「僕は、レイにならいつ殺されてもいいと思っているから」
さらりと。まるで水が流れるみたいにあまりにも自然に紡がれたその言葉を聞くと、私はもう何も話せなくなってしまった。先生はそうやって時折、私に呪いをかけた。
コーヒーのおかわりを待つ間、私は参考書をパラパラとめくって暇を潰す。古文、漢文、現代文。日本語は学ぶものが多すぎて眩暈がする。現代文ですら、漢字にひらがな、カタカナが巧みに使い分けられている。
「……あ。太宰治だ」
先生は私にコーヒーを手渡しながら、参考書に視線を落とした。ちょうど開いていた参考書のページに書かれている問題文が太宰のものだった。走れメロス。有名な話だ。太宰にしては珍しく、陰鬱さの少ない純粋な光の作品。
「先生は、こういった近現代文学も読まれるんですか」
「うん、最近はあまり読まなくなったけどね。昔はよく、読んでたよ。僕は芥川とか、そっちが好きだったな」
私の参考書を手にした先生は、問題文に目を落としている。意外と難しいねと眉根を寄せる彼が、愛おしくて仕方なかった。邪な気持ちを洗い流すように、コーヒーを胃の奥へと押しやる。
「そういえば、もうすぐ進路希望を出す時期になるね。レイはもう志望校とか決まってるの?」
返された参考書を鞄にしまいながら、私は頷いた。
「はい。K大の文学部に行こうかと思ってます」
「K大」先生は少し考えるように上を向く。「いい大学だけど、レイの偏差値ならもう少し上の大学にも行けるんじゃない?」
「私は別に、先生が思っていらっしゃるほど賢くはないですよ」
「そう? いつもテストでいい点数を取っているイメージがあったんだけど……でもそっか。K大にするんだね」
「はい。先日オープンキャンパスに行ったんですけど、雰囲気も良かったので」
「ふふ、そっか。――レイも来年にはここからいなくなっちゃうんだね」
遠くを見るように先生はそう言って、寂しそうに笑った。
いつかここに来なくなる。先生と会わなくなる。ずっと考えないようにしてきたことだった。
今が人生で最も尊い時間であることは疑いようもないことだが、実際のところ、先生のいない人生をどのように過ごしていたのかの記憶すら曖昧になるほどに、私は人生の中心に先生を据えていた。先生と出会って一年。この人が私に与えてきたものを思い返すと、おそらく残りの一年を全部使っても返せないだろう。
いつまでもこの箱庭で幸せに暮らせたらいいのに。簡単な願いほど叶わないということも、先生と出会ってから知った。
「先生は、……私がいなくなったら、寂しいですか」
飲もうと持ち上げていたカップが、空中で行き場を失い、先生の手元で困ったように微かに揺れた。少しして、思い出したように口元まで動き出す。
「寂しいよ」
その割には感情の読めない声色だった。
「うん、そうだね。寂しい、と思う。実際にそうなってみないとわからない、なんて月並みな回答を君は求めていないと思うから、そう言うけど」
その通りだった。私は確かな答えだけを求めていた。そして、先生が私の求めている回答をしてくれたことに喜んでしまっている。
「そう、ですか」
嬉しいとか私も寂しいなどと気の利いた返事を返すことができず、私は相槌を打つしかなかった。この頃には私の先生への気持ちはふとしたきっかけで全てこぼれてしまいそうなほどに膨らんでいたが、それを悟られてはいけないような気がして、なんとか蓋を押さえつけるので手一杯だった。
「僕はずっと一人だったから。レイに出会えて本当に幸せだと思っているんだよ」
いつか、先生は身の上話を語ってくれたことがある。自分にはもう両親がいないこと、友人も数えられるくらいしかいないこと、理科が本当に大好きなこと。私は先生がふとした瞬間に少しだけこぼすそういった話を、忘れないように、大切に覚えていた。
他愛もない話を重ねているうちに、先生はいつの間にか、私が手渡したクッキーをほとんど食べてしまっていた。名残惜しそうに最後の一枚を手に取ると、思いついたように私の方に向ける。
「はい、あーん」
悪気のないそれを受け入れるべきか躊躇い、私は恐る恐る口を開けた。器用に指先でクッキーを押し込まれた。私が飲み込んだのを見て、先生は満足そうに笑む。
「これで毒が入ってても、死ぬ時は一緒だね」
先生は、平気な顔をしてこういうことを言える人だった。
帰ろうと身支度を始めた先生に合わせて、私も筆記用具を鞄にしまう。初めのうちは気にしていた忘れ物も最近は気にしなくなってしまった。
窓を閉める前に「一本だけいい?」と断りを入れて――実際のところ、先生は私がダメと言っても吸うのだろうが――煙草を吸い出した先生をぼんやりと眺める。十月の夜は早い。もう真っ暗だ。
きちんと携帯灰皿に吸い殻をしまうと、先生は灰色のロングコートを羽織った。寒がりの先生はもうすっかり真冬の格好をしていた。
連れ立って廊下を歩く。校内はほとんど人気がなく、私たちのバラバラな足音が、静かに響いている。
寒くなったねと先生は細く息を吐いた。私はそれに相槌を返しながら、ジャンパーのチャックを閉めた。明日からはマフラーもいるかもしれない、なんて思いながら。
階段を降りている途中、先生はふと声を上げた。
「クッキーのお礼、してなかったね」
「お礼なんて別にいいですよ」
渡り廊下までたどり着き、私は立ち止まった。先生はここで職員室のある西校舎に行き、私はそのまままっすぐ靴箱へと向かうので、自然とここで分かれることになっていた。
「そういうわけにはいかないよ」
先生はきっぱりとした口調で、首を横に振った。
「僕は、もらった分はきちんと返したいんだ。……ねえレイ、目を閉じて少しだけ口を開けてくれる?」
言われるがままになると、唇に何か当たった。柔らかくて暖かい温もりだった。次いで、口の中に何かがねじ込まれた。……甘い。驚いて目を開けたが、先生は対面でにこにこと微笑んでいるだけだった。
「僕がいつも食べてるチョコの、最後の一個あげる。こんなのしかなくてごめんね」
先生の言葉が上手く処理できない。今、私の指先に触れたのは先生の指? それとも――
「じゃあ、また明日。気をつけてね」
薄暗い廊下の奥に、先生が消えていく。
私は、口の中のチョコが溶けるまでその場から動けなかった。
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時に人生というのは、難題を出してくる。
「トリックオアトリート。……どっちがいい?」
放課後の理科準備室。差し込む西日を背にした先生の顔が、何か間違いが起これば触れてしまえそうなほど近くにある。私は目線をそっと逸らして、ブレゼーのポケットからラッピングされたお菓子を取り出すと、先生に手渡した。お化けやカボチャを形どった、アイシングクッキー。
先生は意外そうな顔をして、しばしその袋を眺めた。
「……手作り?」
「はい。先生がこうやって聞いてきた時のために、作っておきました」
するりと先生の横を通り抜けると、私はいつも通り、ソファに腰掛けた。鞄から参考書を取り出す私を眺めながら、先生は封を解いてクッキーを口にする。
「あ、美味しい」
その一言にほっと胸を撫で下ろす。昨日、レシピと睨めっこした私も報われたようだった。
十月三十一日。いわゆる、ハロウィン当日。どちらかと言えば仏教とか神道寄りであるはずのこの国は、しかしイベント毎なら見境ない。夏休みシーズンが終わってからというもの、仮装やら飾り付けやらがあちこちで売られているのを見かけた。例年通り、私はその商戦をぼんやりと眺めるだけの凡人のはずだった。もっと言うなら、昨日までは今日がハロウィン当日であるということすら忘れていた。
思い出したきっかけは、いたってシンプルだった。昨日のお昼休み、お菓子交換しようよ、とクラスで仲良くしている何人かに声をかけられたためである。
「……お菓子?」
「そ。明日はハロウィンだし、楽しそうじゃない? 明日の昼休みとかどう?」
ああ、と遅れて思い至った私は、いつも通り準備室で時間を潰してから、帰る途中でスーパーに寄った。もちろん、手作りするつもりなど微塵もなかった。なかったのだが――
スーパーで、ハロウィン限定パッケージになっている適当なお菓子を見繕っている私に、送られてきたメッセージ。美味しそうなカップケーキの写真と共に添えられた、作ったよの一言。あれよあれよと手作りお菓子の交換会へとシフトしていくのを、私には止める術がなかった。
そうして出来上がったのが、先生の手元にあるアイシングクッキーである。つまるところ、先生だけのために作ったわけではない。
こういうことは、あえて先生には言わないのだが。
「凄いね、手作りなんて」
躊躇いもなくもう一枚口にする先生に、私は緩く首を振って、
「でも別に、大したことはしてないですから」
「そうかな、この……アイシング、だっけ。これとか結構、難しそうだけど」
「生地を焼いて上手いことするだけですよ。意外と、なんとかなるもんです」
先生は私にマグカップを手渡しながら、感心したように息を吐いた。ふと私が開いていた参考書に視線を落とす。それが国語の参考書だとわかると、先生は露骨に不満そうな顔をした。理科教師である自分と対極の教科を、わざわざここにきてまで見ていることが心外そうだった。
秋風が頬を撫でる。参考書から顔をあげると、先生が窓を開けてちょうど煙草を咥えていた。ライターで火をつけ、気怠そうに校庭を見下ろしながら、ゆったりと息を吐いている。
先生が吸っている煙草の銘柄を、匂いを、もう覚えてしまった。そのくらい私はここにいたし、先生が煙草を吸う横顔を見ていた。私のところまで漂ってきた煙をすっと吸い込むと、まるで先生がすぐ横にいるような錯覚に陥った。
煙草は、喫煙者の身体も、その近くにいる人も、じわじわと蝕む遅効性の毒。不意に保健の教科書で見た真っ黒な肺を思い出し、ぶるりと身体が震えた。その毒を愛しそうに吸う先生も、それを少し離れて眺めている私も、解剖したらきっともう真っ黒な肺なのだろう。
「ごめん。煙、そっちにいっちゃったね」
視線を感じたのか、先生はふと振り返った。
「いえ、お気になさらず」
「レイはいつもそう言ってくれるけど、僕は気になるよ。……君に甘えてここで吸うのも、本当は良くないってわかっているんだけどね。嫌ならはっきり言ってね、吸わないようにするから」
とんでもない。私は慌てて首を横に振った。先生はそんな私を不思議そうに見て、また窓の外に視線を戻した。
私が勉強をして、先生が仕事をする。それがこの準備室で放課後に営まれる日常だった。先生はキーボードを叩き、授業の小テストを採点し、そして時折ふと顔を上げて、私を見て微笑む。先生は、私にとって、殆ど全ての存在意義だった。
一時間ほど勉強してひと段落ついたとき、先生はクッキーを食べながら私の横に腰掛けてきた。私は参考書から目を離し、先生を見た。彼は本当に幸せそうにクッキーを咀嚼している。
「――もし、そのクッキーに毒が入ってたらどうしますか」
なんて事のないもしも話。先生の喉が上下する。なおもクッキーを口に運びながら、彼はまるで世間話でもするみたいに言う。
「たとえそうだったとしても、僕は気にならないかな。ちゃんと全部食べるよ」
その瞳があまりにも純粋な輝きをしていたので、聞いた私の方が怯んでしまった。先生は、私が毒を入れてないとたかを括っているわけではなく、本当に毒が入っていても構わないというような顔をしていたから。
「気にならない、ですか」
「うん。こんなに美味しいお菓子を食べられて、その上で死ねるなら、全然構わないよ」
「――死ぬのに?」
「僕は、レイにならいつ殺されてもいいと思っているから」
さらりと。まるで水が流れるみたいにあまりにも自然に紡がれたその言葉を聞くと、私はもう何も話せなくなってしまった。先生はそうやって時折、私に呪いをかけた。
コーヒーのおかわりを待つ間、私は参考書をパラパラとめくって暇を潰す。古文、漢文、現代文。日本語は学ぶものが多すぎて眩暈がする。現代文ですら、漢字にひらがな、カタカナが巧みに使い分けられている。
「……あ。太宰治だ」
先生は私にコーヒーを手渡しながら、参考書に視線を落とした。ちょうど開いていた参考書のページに書かれている問題文が太宰のものだった。走れメロス。有名な話だ。太宰にしては珍しく、陰鬱さの少ない純粋な光の作品。
「先生は、こういった近現代文学も読まれるんですか」
「うん、最近はあまり読まなくなったけどね。昔はよく、読んでたよ。僕は芥川とか、そっちが好きだったな」
私の参考書を手にした先生は、問題文に目を落としている。意外と難しいねと眉根を寄せる彼が、愛おしくて仕方なかった。邪な気持ちを洗い流すように、コーヒーを胃の奥へと押しやる。
「そういえば、もうすぐ進路希望を出す時期になるね。レイはもう志望校とか決まってるの?」
返された参考書を鞄にしまいながら、私は頷いた。
「はい。K大の文学部に行こうかと思ってます」
「K大」先生は少し考えるように上を向く。「いい大学だけど、レイの偏差値ならもう少し上の大学にも行けるんじゃない?」
「私は別に、先生が思っていらっしゃるほど賢くはないですよ」
「そう? いつもテストでいい点数を取っているイメージがあったんだけど……でもそっか。K大にするんだね」
「はい。先日オープンキャンパスに行ったんですけど、雰囲気も良かったので」
「ふふ、そっか。――レイも来年にはここからいなくなっちゃうんだね」
遠くを見るように先生はそう言って、寂しそうに笑った。
いつかここに来なくなる。先生と会わなくなる。ずっと考えないようにしてきたことだった。
今が人生で最も尊い時間であることは疑いようもないことだが、実際のところ、先生のいない人生をどのように過ごしていたのかの記憶すら曖昧になるほどに、私は人生の中心に先生を据えていた。先生と出会って一年。この人が私に与えてきたものを思い返すと、おそらく残りの一年を全部使っても返せないだろう。
いつまでもこの箱庭で幸せに暮らせたらいいのに。簡単な願いほど叶わないということも、先生と出会ってから知った。
「先生は、……私がいなくなったら、寂しいですか」
飲もうと持ち上げていたカップが、空中で行き場を失い、先生の手元で困ったように微かに揺れた。少しして、思い出したように口元まで動き出す。
「寂しいよ」
その割には感情の読めない声色だった。
「うん、そうだね。寂しい、と思う。実際にそうなってみないとわからない、なんて月並みな回答を君は求めていないと思うから、そう言うけど」
その通りだった。私は確かな答えだけを求めていた。そして、先生が私の求めている回答をしてくれたことに喜んでしまっている。
「そう、ですか」
嬉しいとか私も寂しいなどと気の利いた返事を返すことができず、私は相槌を打つしかなかった。この頃には私の先生への気持ちはふとしたきっかけで全てこぼれてしまいそうなほどに膨らんでいたが、それを悟られてはいけないような気がして、なんとか蓋を押さえつけるので手一杯だった。
「僕はずっと一人だったから。レイに出会えて本当に幸せだと思っているんだよ」
いつか、先生は身の上話を語ってくれたことがある。自分にはもう両親がいないこと、友人も数えられるくらいしかいないこと、理科が本当に大好きなこと。私は先生がふとした瞬間に少しだけこぼすそういった話を、忘れないように、大切に覚えていた。
他愛もない話を重ねているうちに、先生はいつの間にか、私が手渡したクッキーをほとんど食べてしまっていた。名残惜しそうに最後の一枚を手に取ると、思いついたように私の方に向ける。
「はい、あーん」
悪気のないそれを受け入れるべきか躊躇い、私は恐る恐る口を開けた。器用に指先でクッキーを押し込まれた。私が飲み込んだのを見て、先生は満足そうに笑む。
「これで毒が入ってても、死ぬ時は一緒だね」
先生は、平気な顔をしてこういうことを言える人だった。
帰ろうと身支度を始めた先生に合わせて、私も筆記用具を鞄にしまう。初めのうちは気にしていた忘れ物も最近は気にしなくなってしまった。
窓を閉める前に「一本だけいい?」と断りを入れて――実際のところ、先生は私がダメと言っても吸うのだろうが――煙草を吸い出した先生をぼんやりと眺める。十月の夜は早い。もう真っ暗だ。
きちんと携帯灰皿に吸い殻をしまうと、先生は灰色のロングコートを羽織った。寒がりの先生はもうすっかり真冬の格好をしていた。
連れ立って廊下を歩く。校内はほとんど人気がなく、私たちのバラバラな足音が、静かに響いている。
寒くなったねと先生は細く息を吐いた。私はそれに相槌を返しながら、ジャンパーのチャックを閉めた。明日からはマフラーもいるかもしれない、なんて思いながら。
階段を降りている途中、先生はふと声を上げた。
「クッキーのお礼、してなかったね」
「お礼なんて別にいいですよ」
渡り廊下までたどり着き、私は立ち止まった。先生はここで職員室のある西校舎に行き、私はそのまままっすぐ靴箱へと向かうので、自然とここで分かれることになっていた。
「そういうわけにはいかないよ」
先生はきっぱりとした口調で、首を横に振った。
「僕は、もらった分はきちんと返したいんだ。……ねえレイ、目を閉じて少しだけ口を開けてくれる?」
言われるがままになると、唇に何か当たった。柔らかくて暖かい温もりだった。次いで、口の中に何かがねじ込まれた。……甘い。驚いて目を開けたが、先生は対面でにこにこと微笑んでいるだけだった。
「僕がいつも食べてるチョコの、最後の一個あげる。こんなのしかなくてごめんね」
先生の言葉が上手く処理できない。今、私の指先に触れたのは先生の指? それとも――
「じゃあ、また明日。気をつけてね」
薄暗い廊下の奥に、先生が消えていく。
私は、口の中のチョコが溶けるまでその場から動けなかった。