365日のラブストーリー
(これは、どうしたら)

 話そうとしていたこと全部がどこかへ吹っ飛んで、空っぽになった頭の中にただ、鼓動が響いている。

「有紗ちゃん」
「はいっ」

 名前を呼ばれてあごを上げると、千晃の顔が近づいた。そのまま降りてくる唇を、避ける余裕なんてどこにもなかった。
 薄い唇が触れる。信じられないほど柔らかい。

「そんなにガン見しなくても」

 千晃は息がかかりそうなくらいの距離で、笑みをこぼした。仕事中の顔でもなければ、心暖に向ける父親の顔でもない。はじめて見る表情だ。

 それでもエレベーターに乗ると、またすっかりいつも通りに戻っている。黒糖おかきを渡されて、そのあとは何事もなかったかのように総務部のフロアで降りていく。

 一人残された有紗は、扉が閉まるとその場にしゃがみ込んだ。指先で自分の唇に触れてみる。
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