青いチェリーは熟れることを知らない①
 ――午後十五時を迎えるころ、鳥居隼人が席を離れたのを見計らった吉川が我慢の限界というように愚痴をこぼす。

「どこが間違ってるとか教えてくれもしないのに……あーあ、桜田さんとは大違いだなー。本当にわかっててやってるんだかも謎だしなぁ~」

「……エラーコードとか見てもわからないものなんですか?」

 あまりにも無知なちえりはなるべく控えめに自信なく声を下げて言う。

「若葉ちゃんさー、エラーコード出ないんだから当たってるんだってば!」

「…………」

 なぜか吉川の物言いにムッとしてしまう。どことなく馬鹿にされているようなイメージを強く受けたからだ。

「でも瑞貴センパイがあの人に頼んだのなら出来る人なんじゃ……」

 あの責任感の強い瑞貴が自分の代わりにと置いて行った人物が何もわからない新人なはずがない。

「はいはいそうですねー。たった二、三ヶ月そこらの新入社員になにがわかるんだかねー……」

 投げやりな態度が丸見えな吉川は、鳥居が席に戻るとわざとらしく余所のサブリーダーのもとへ走った。

「……吉川さんかなりムカついてますね」

 佐藤は鳥居に聞こえないよう小声で囁いた。

「うん……仕様書ちゃんと見たのかな……」

 瑞貴に全信頼を寄せるちえりは彼が選んだ人物なら……と、いまは鳥居隼人を信じている。
 ちえりらは鳥居隼人と一緒に仕事をしたことがないため実力の程はわからないが、彼の首から下がる青い紐は会社の評価なのだから贔屓目なく信頼に値するものだと思う。

 それらを考えれば考えるほど、吉川が間違っている気がしてならない。口ばかりで実力が伴わないと思われても仕方なく、だから赤い紐のままなのだろうと二、三ヶ月そこらの素人でも察しがついた。

(吉川さんがここに居続けられるのって……瑞貴センパイのお陰過ぎるんじゃ……)

 黙々と作業に取り掛かったちえりは凡ミスをなんとか見つけ、厳しい鳥居のチェックを無事通過することができた。にわかに慌ただしくなってきたオフィスに気づき顔を上げると、時計はすでに十七時にもなろうところだった。

(午後の分これからか……随分時間かかっちゃったな)

「とりあえずお手洗い……」

 延長戦を覚悟し、ちえりがオフィスを出ると瑞貴のデスクの電話が鳴った。そしてその電話をとったのは鳥居隼人だ。

「はい鳥居です」

『あ、桜田だけど……鳥居ごめんな、お前にしか頼めるやついなくて……』

 プライベートでは色々あったにせよ、桜田瑞貴という人物を買っている鳥居。若葉ちえりのこととなると些か感情的になるのは欠点だが、上からも下からも絶大な信頼を受ける彼は会社にとってなくてはならない存在だった。

「全然いいですよ」

『あの三人のチェックは残してくれていいからな。急ぎのものは渡してないはずだから』

「こちらのことはご心配なく。出張お疲れ様です」

『…………』

 淡々としゃべる鳥居に無言の瑞貴。時間を見ても徐々に手透きになるであろうタイミングを見計らって電話を掛けてきたに違いない。
 なにかを気に留めているのは明らかだったが、ここまでの会話ではなにを心配しているのかはわからなかった。

『……あとさ、ちえりいる?』

 冷静に分析していた鳥居はようやくここで瑞貴の目的を見出した。

「……一番言いたかったのってそれですよね」

『……ごめん。あまりにも急いでてカードキー渡さずに出てきちゃったんだ』

「残念ですがその方は現在放浪中です。いまならスマホに連絡してみるのも有りかもしれませんよ」

『そっか、わかった。……さっき電話したけど繋がらなかったから……後でかけ直してみるよ。じゃあ……』

「はい失礼します」

 落胆した様子の瑞貴を突き放すように受話器を置くと、彼が探していた人物が目の前に立っている。

「今の電話……瑞貴先輩から?」

 ちえりは空になった珈琲の紙コップの存在を思いだし、すぐ室内へ舞い戻ってきていた。

「営業課からの電話。打ち合わせる予定でもあったんだろ」

 ずっと彼女の姿がそこにあると気づいていたにも関わらず、"放浪中"と答えたのは自分でも驚きだった。

「……そっか……」

 ふたりして似たような言葉に似たようなリアクション。幼い日を共に過ごした時間が長ければ長いほど、このように似てくるものなのだろうか?
 しょぼくれるちえりを見ていると、眉間の間から何かが溢れだしそうな感覚に鳥居は不快感を露わにする。

「午後の分残ってるんだろ? 終わるまでお前は帰るなよ?」

「……ぅっ……は、はいっ……」

 結局その後、吉川は満足に誰ともしゃべることなく十八時を迎え退社していき、佐藤も”続きは明日やります~”と帰ってしまった。

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