偶然でも運命でもない
39.前髪
前髪を切り過ぎた。
いや、切ったのは自分じゃなく、いつもお願いしている美容師なのだが。いくら短めが流行りでも、眉ギリギリまで切られるとは思っていなかった。
いつもより早く仕事を済ませて美容院に寄る。
パーマをかけてもらい、毛先と前髪を整える。
いつもの通りそれだけの予定だった。
「ちょっと重たいから、軽くして明るい印象にしましょう。せっかく整っているんだから、隠すのは勿体ないですよ。」
そう言って、その美容師は響子の前髪にサクサクとハサミを入れた。
彼の腕は確かで他の客からの評判もいい。だから、彼の言う通りそれは「いい感じ」なのだろうと思う。
……客観的に見たら。
長めに揃えて流していた前髪は、スッキリと短めに整えられて、表情の印象も確かに明るく見える。
ただ、慣れないだけだ。
改札を抜けてホームに向かう間、今日は誰にも会いませんように、と祈る。今日、会わなくても、少なくとも明日には会うことになるだろうけど。とにかく、今は誰か知り合いに会う心の準備が出来ていなかった。
だから、ホームに大河の姿が見えた時、響子は迷わず回れ右して、たった今、降りたばかりの階段を登ろうとしたのだった。


「大河!」
呼ばれて、俺は階段を振り返った。
階段を駆け降りながら、海都がこちらに手を振っている。
ふと、海都が何かに気付いて足を止めた。
海都は階段を登り始めたばかりの女性の進路を塞いで、満面の笑みを浮かべる。
立ち止まったその女性の、後ろ姿。見馴れたコートに白いストール。大きめのハンドバッグにパンプス。
背中に下された髪はくるくると綺麗にカールしていて、蛍光灯の光を反射して輝いている。
「響子さん、何してるの?」
海都に手を振り返しつつ歩み寄り、後ろから話しかけると、彼女は一瞬固まって、それからゆっくりと振り返った。
「おつかれさま。」
何かを諦めたように溜息混じりにそう言ってこちらを振り返った響子は、大河を見上げて驚いた顔をした。
「大河くん、髪切ったの?めっちゃ短い。」
問われて、大河は自分の髪に手をやる。
「だいぶ伸びてたから。響子さんも髪切ったんだね。パーマもした?髪、ツヤツヤ。」
その言葉に、響子は慌てて前髪を隠す。
海都がそれを見て、ニヤリとした。
「その前髪、可愛いっすね。」
海都の言葉に、前髪だけでなく両手で顔を隠すようにした響子の顔と首元が紅く染まる。
「…………変じゃない?」
「隠したら、わからないよ。」
大河が呟くと、海都が声を立てて笑う。
「大河、響子さん、めっちゃ可愛い。」
横からそう言ってばしばしと腰を叩いてくる海都を避けながら、大河は響子の手首を掴んでそっと降ろす。
「どうしたの?別に変じゃないよ。」
「本当に、変じゃない?」
少し俯いたまま上目遣いだけでこちらを見上げた響子の、長い睫毛と整った眉。実際、短く切り揃えられた前髪は、響子にとても似合っていた。恥ずかしがる仕草も可愛い。
「可愛い、と、思うけど。」
そう言って大河は、響子の手を離した。
響子の頼りなく細い手首。いつまでも顔を隠す仕草に焦れて、思わずその手を掴んでしまったが、響子は抵抗しなかった。
俺、ちょっとキザ過ぎたかな……そう思うと、急に恥ずかしくなる。耳が熱い。
「……なら、別にいい。なんでもない。」
響子は赤い顔のまま、大河から目を逸らす。
「俺も。俺も可愛いと思う!」
海都が大河にまとわりつきながら、はしゃいだ声を上げる。
「ちょっとお前、鬱陶しい。」
大河が苦笑すると、釣られたように響子も笑った。
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