偶然でも運命でもない
42.未知の生き物
駅のホーム。ベンチから離れたところにぽつんと設置された自動販売機のボタンを押し、カードをかざす。
ゴトンと音を立てて取り出し口に落ちたボトルを拾おうとして、不意に後ろから抱きつかれた。
身体に回された手首が臍の上辺りで交差している。小さな手がジャケットの裾を掴むような仕草で振り解かれまいと主張する。細い指先と薄いピンクに塗られた爪。
乱暴に上げそうになる声を飲み込んで、首から上だけで振り返ると、響子がこちらを見上げて満面の笑みを浮かべていた。
「大河くん、一緒に帰ろ?」
「わかった。わかったから、ちょっと離れてください。」
「ヤダ。」
「水、買ったんで、それ取る間だけ。」
「ヤダぁ。だって、大河くん、逃げちゃうもん。」
「逃げないですよ。」
抱きつかれたことに、嬉しさよりも苛立ちが勝った。
大きく溜息をつくと響子にしがみつかれたまま、屈んでボトルを取り出す。
「だって、さっき逃げたじゃない。」
「逃げたんじゃなくて、“荷物あるからちょっと待ってて”って言ったじゃないですか。」
「なんで怒ってるの?」
「怒ってない。」
「怒ってるじゃん!」
「じゃあ、もう、それでいいです。」
「なんで怒ってるの?」
「だから……」
怒ってない、と言おうとして、いや、怒ってるな、と思う。
最終の飛行機で実家から戻り、いつもの駅で空港からのバスを降りたところで、コンビニから出てきた響子に会った。
会えて嬉しかったのは、一瞬だった。
響子は完全な酔っ払いで、既に未知の生き物のようだった。
大河はもう一度大きく溜息をついて、片手に持ったペットボトルを見つめる。
背中に触れる響子の体温。
空いた手で彼女の手首を掴み、引き剥がすようにして向き直る。
「酒くさ。……一体、何をどれだけ飲めば、そんな状態になるんです?」
「えっとねぇ、覚えてない。……6時前から飲んでたの。夕方の6時。」
「今、11時半ですよ。もうすぐ日付け変わりますよ。分かってます?」
「うん。」
「で、何であんな場所に、ひとりでいたんです?」
「だって、みんなオネエちゃんの居る店に行っちゃって。」
「なるほど。」
一緒に飲んでいた会社の男性達はキャバクラか何か、そういう店に行ってしまったのだろう。
呆れた。
響子はきっと、ひとりで帰れると言い張ったのだろう。
それでも酔った女性を一人で駅前のターミナルに残し次の店--それも、別な女性達のいるような店--に、向かったという男性達にも呆れる。
「コーヒーでも飲んで帰ろうと思ったんだけど。なんか、面倒くさくなって。」
「それで、コンビニ入って、何でプリンとお菓子買ったんです?」
「なんとなく。あ、大河くん、食べる?」
「食べない。」
間髪いれずに返事をすると、ペットボトルのキャップを開けて響子に渡す。
「とりあえず、それ、飲んで。」
荷物を置きっぱなしのベンチに戻ると、響子は慌てて後をついてくる。
「待って。置いてかないでよ。」
「置いていかないですよ。荷物取りに戻るだけ。」
自分の荷物と響子の荷物をまとめて持ち、腕を組もうとする響子を避けて、その手を繋ぐようにとる。
「電車、一緒に降りて、家まで送ります。」
「ううん。いい。大丈夫。」
「大丈夫じゃないでしょ。」
「大丈夫。送ってもらったら、大河くんの帰る電車、無くなっちゃう。」
なんで、そういうところだけ、しっかりしているんだろう……。
「まだ時間あるし、終電に乗れれば平気なんで。」
「じゃあ、改札まで。」
「響子さん。もし一人で帰らせて、帰り道で響子さんに何かあったら、俺は後悔します。今日のことをずっと。」
「大河くんに家まで送ってもらっても、何も無いって保証はないでしょ。」
「……は?」
「だって。私、オバサンだけど一応女だし。一人暮らしだし。大河くん、若い男の子だし。」
響子はこちらを見上げてまた嬉しそうな顔をする。
それはつまり、俺が彼女を……。
全く信用されていないのか、過剰な期待をしているのか、そもそも彼女が何を考えているのか、掴みどころがない。
「響子さんは、俺が、酔った相手に手を出すような人間に見えるんですか。」
「見えないけど。でも、断れないでしょ。」
さも当然というように、大河の言葉じりに被せる様にあっさりと言い放った響子の返答に、叫び出したくなった。
一体、なんなのだろう。
繋いだ手は指先まで温かく、響子はニコニコと嬉しそうで、でも、やんわりとした拒絶の言葉を並べる。それが、なんだかとても腹立たしい。
きっと、彼女が酔っ払いで、その笑顔は相手が自分だからじゃない。だから苛々するのだ。全部アルコールの所為だ。
ホームにアナウンスが流れる。
大河は溜息をつくと暗い線路へと視線を落とした。
遠くから明かりが近づいてくる。
「酔っ払いがみんな無害とは限らないじゃない。」
響子は笑顔のまま、そう言った。
「それは、俺も全く同じ意見です。」
彼女の言う言葉の意味は、きっと、大河の思う事とは違うものなのだろうけど。
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