一葉恋慕
第一章 まとの蛍
 数メーター先のベンチに誰か居る。弱視であるにも拘らず眼鏡を掛けることが嫌いな私には都会の中とは言え、夜陰に沈む、木々の生茂った公園内にあってはそれが誰なのかよく判らない。此処をねぐらとしている路上生活者だろうか。境遇的にさしてそれと変わりなく、世間の差別の目から逃れて、暫し安息の時を過そうと思っていた私にはその存在が迷惑だった。相見互いと思われようが、世に疎んじられ、気の荒んだ者同等にあっては却って互いに敬遠し合う場合が多いのだ。少なくとも今の私はそうだ。相手の情けない姿に我が身を見てしまうのである。下手に絡まれない内にさっさとベンチの前を通り過ぎて、更に公園の奥に行こうとした私はしかし足を止めた。ベンチに腰掛けて,、俯いたまま地面を見詰めているその人物の異様な姿と、何某か尋常ではない一種悲愴な雰囲気に気を飲まれたからである。まず、明らかに路上生活者ではない。男ではなく女である。それも大層うら若い。また至って質素なのだが今時あり得ない日本髪の頭と、くすんだ格子縞の着物に小豆色の羽織姿が何とも奇妙だ。膝の上に風呂敷包みを置いているのもどこかおかしい。今時風呂敷など使うものだろうか?よからぬ了見からでなく、しかししきりに頭の中で詮索し続ける私の視線にとうとう気付いたのか、女が頭を上げて私を見た。それまでまったく心此処にあらずとばかりなにごとかに打ち悩んでいた女の表情は一転して驚愕をあらわしていた。いきなり出現した‘男’の私に胆を冷やしたのだろう。
「何者…いや、何か御用ですか?立ち止まって女を見詰めるとは無礼ではありませんか。私をその手の女と間違われては困ります!」
女の口調は突っ慳貪で敵意さえ感じられたがしかしそれは私という不審者の出現の故とはあながち思えなかった。何かしら思い詰めた良家の子女、もしくは切事に悩む乙女の深刻さがある。敵意は恐らく別の何者かに向けられていたのだろうが、しかしそのさ中にたまたま現れた私が標的となったわけだ。もっともこの状況での若い娘なら敵意ならずとも警戒するのが当たりまえだ。マンションや会社のビル群が隣接するとはいえ、それらを隔てるように車両の多い道路が周囲を巡っているこの公園は、謂わば幹線道路中の大きな中央分離帯のようで、時刻もあろうが散策する人も殆どいなかった。街灯も少なく、ただでさえ他人事に無関心が横溢するメガロポリス東京でこの状況は…。しかし‘不審漢’が私なので彼女は安心だ。女を襲うどころかその女子供に罵られてさえ応酬もできないほど気力のなえた私は100%無害である。ちなみに私は55歳で車上生活者だ。これだけでプロフィールは充分だろう?格差社会日本にあっては規格外の不良品、市民の嘲笑の的、‘しみ’の的である。生活用具を満載した軽のワンボックスをこの近くに路駐している。車にもどるなら一日二四時間、一年三六五日、人々の蔑視に晒され続けるプライバシーゼロの苦痛から暫し逃れ、憩いたかったわけである。しかしそれゆえの女との邂逅だった。
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