一葉恋慕
女の物言いとまた多少時代がかったそれにも気圧されて黙っていると、怪漢とばかりに女はベンチから立ち上がってそのまま行こうとした。しかし何かに思い当ったかのようにその場に立ち止まり今度は一転へつらうがごとく次のようなことを私に尋ねて来た。ただし相当混乱してる観がある。
「あっ…失敬。もしやあなたは久佐賀さんではありませんか?先程の借り入れのこと、お考え直しのうえ私を追いかけて?ふふふ、あの、私至って弱視なもので、あなたが誰だかよく…もしや三組町、顕真術会の久坂佐賀先生ではありませんか?」何のことだかさっぱりわからなかった、私は始めて彼女に口を利いた。「いや、違います。ただの通りすがりの者で…」とぼっそと愛想なく云う。人とかかわろうとする意志がそもそもまったくないのだ。しかしそれならなぜ凝視を?と女は改めて機嫌を損じ且つとんだ私事の露呈や媚びまで売ってしまってとその度を増すようだった。「ふん」とばかり鼻を鳴らして行きかけたがまた立ち止まる。今度は何だろうか。啖呵を浴びせられるのなら勘弁して欲しい。堪えられそうもないからだ。そうと察して背を向ける私にしかし女は、あとから思えば当然だったが更に意外なことを訊いてきた。「あの、もし…ただいまは失礼しました」と啖呵どころかまず謝って見せ次に「あの、 此処はいったいどこでしょうか?法真寺の境内に居たはずなのに…それについ今しがたまで昼過ぎでしたのに急に暗くなって…ほほほ、あの、恐れ入りますが此処の所番地を教えていただけませんか?それとただいまの時刻を」と悉皆わからぬことを聞いてくる。髷姿と云い、覇気のまったくない私でもさすがに眼前の女には強く興味を引かされた。いったい何者なのだろう?とにかく事実を伝えてやる。「はい、今は夜の八時過ぎで、ここは大森駅から遠からぬ公園の中です。逆に…その法真時とは何処の寺ですか?そもそもあなたは何処にお住まいですか?」などと、うら若き女性に臆面もなく私は訊き返していた。女っ気ゼロの灰色の人生の中で奇跡のような一時だったが、それが本当に奇跡と知れるのに幾許もかからなかった。女はこう答えたのだ。
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