一葉恋慕
第二章 お春の一生
「おや、お島さん、お帰りかえ。このたびは御秋霜ざんしたねえ。おっかさんもこれで御昇天されたわね」銘酒屋のやりて婆お蔦がほとんど愛想程度の口ぶりで弔い帰りのお島をなぐさめる。「はい、どうも。このたびは…」やつれ切った表情でお島が返すのに「(葬式)組の者たちに余計な心付けなどしなかったろうね。とうに女将さんが払っているんだからね。あんたのことだからおっかさんへの思い入れのあまり…」「ふふ、心付けしようにもお足がござんせん」そう放心気に云うお島は年の頃十七、八。背はふつうよりも高く目鼻立ちはいかにも日本人離れしていて、こころなしか髪の毛も茶色がかっている。いたって異国情緒のある娘である。しかしその鬢もほつれ毛も普段から手入れをしていないのか、だらしなく伸びたままで、だいいち結った髷からしてその年令に、また場所に似つかわしくない丸髷であった。母親の埋葬だというのに羽織ひとつない着流し姿。奉公先の下働き女が仕事の合い間にちょっと前掛けをはずしただけのような、粗末ないでたちがなんともあわれである。開港以来このかた南蛮人への恐れと偏見も薄れて来、市井の人々、就中男どもの目にもこの手の目鼻立ち、すなわち欧米婦人への美意識が徐々に生まれ始めていた。まして身体付きとなると日本人女性の比ではなく、好色漢ならずともつい視線を送ってしまうようなお島の身体の均整のよさである。云わずもがな、お島は日本人の母親とアメリカ人の父親の間に生まれた間の子であった。横浜で羅紗緬を稼業にしていた母親のお春が身ごもった子であり、現地妻の感覚でしかなかった父親が日本での赴任の用を終えると妻子を残してさっさと帰国してしまい、子持ちとなったお春は羅紗緬への蔑視もあって遊郭に勤めることもままならなくなってしまった。その挙句以前の稼業とは似ても似つかない、横浜慰留地におけるお茶場(※欧米の事業家たちが慰留地に建てた製茶再生工場の呼び名。多くの日本婦人たちがここで女工として働いていた)で再生茶女工として働くに至ったのである。朝の三時に起きては幼いお島を背に負ぶって横浜公園に向かい、そこに来る仕事士のもとへと他の女たちとあらそっては駆け寄り、再生茶女工の日雇いの仕事に就くのが毎日だった。日銭は天保銭で13銭から16銭、朝7時から夕方5時までの仕事で、その間ずっと室温40度を優に超えるだろう、茶塵がもうもうと立ち上る劣悪な作業棟の環境の中で、百人以上の他の女工たちに混じって働かねばならなかった。
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