一葉恋慕
直径60〜70㎝、高さ70㎝くらいの、熱い湯が充たされた鉄釜に手を入れては原茶を撹拌するのである。中腰で一日中立ったままの仕事で、少しでも手を抜けば容赦なく中国人現場監督の叱責の声が飛んで来る。汗びっしょりとなり終業時には手と云わず顔と云わず肌が青茶色に染まってしまう。女性としては比較的高額だった日銭が得られるのでなかったらとてもやれない仕事だった。それのみならずまだ三才でしかないお島を二時間後の九時になるまでは背に負ぶったままで働かねばならない。腰への負担もあったが何よりそのお島が心配だった。九時になれば一人のアメリカのご婦人が茶場にやって来て、お島のような幼子を始め子供たちをあずかってくださるのだった。そのまま終業時まで面倒をみてくださる。間の子のお島を特に可愛がってもくれお春にとっては神様とも拝みたいご婦人だった。名をバラ夫人と云い、一八七三年にアメリカの外国伝道協会から派遣されて横浜の同国ミッションホームで教師として働いていたのを、夫J・Cバラとの再婚を機に所属もアメリカ長老派に移り、かねてから目に余っていたお茶場の子供たちの為に学校(兼保育園兼託児所)を造設したのだった。室温四十度を越えるだろう作業所内であっては幼児にはむごすぎる。背中のお島が気になって仕方がなかった。しかしその一目で間の子と知れる背中のお島を見ては、他の女工たちの作業中の悪口まで聞かされる。
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