阿漕の浦奇談
第一章 散る桜

尋ぬとも風のつてにも聞かじかし花と散りにし君がゆくへを -西行法師

 弥生の花散るころ弘徽殿前にある桜の木からも散り交(か)いくもるというほどに、折りからの強い西風に吹かれて盛大に花が舞っていた。その花吹雪に隠れるようにして一人の北面の武士が、殿上など思いも寄らぬ身ながら、招かれて弘徽殿前の廂の間に控えていた。年の頃は二十をやや超えたくらいか、眉目秀麗な、絵に描いたような若武者の束帯姿である。「左兵衛尉が参りました」中宮付の女房が御簾の奥に言上する。「義清(のりきよ)か」というやんごとなきお方の問いかけに「さぶろう」とかしこまる若武者。数日前に出家を表明して、宮中の少なからぬ人達を驚かせた佐藤義清こと、後の西行法師のいまだ凛々しくも貴(あて)なるその姿であった。官位低きにもかかわらずかくも宮中の評判を呼んだわけは義清が鳥羽上皇から寵愛され、かつ御前なる中宮の出身家である徳大寺家の家人だったからであり、それならば後の出世のほどやいかにと図られもした身を、何故にと訝られたからである。しかしだからと云って中宮自ら問い質すなど、また左兵衛尉の分際で目通りが叶うということ自体考えられなかった。いったいいかなる椿事の出来であったろうか。「公能(さねよし)から聞いた。義清、出家のわけを申せ」「は」と中宮からの問いにしかし二の句をさわやかに言上できない義清、ややあって「恐れながら…宮様の御気色、優れ遊ばさずを拝謁するに忍びなく、また私めの世を儚んでのことでございます」と真と形ばかりの理由を綯交ぜにして言を繋いだ。その言葉に檜扇で口元を隠しながら忍び笑いする中宮の様子が御簾越しにも察せられる。なにゆえのことだろうか。「まろの煩いなど、そもなにゆえそなたにわかるのか、のう堀河」とお付きの女房堀河に水を向ける中宮璋子。権大納言藤原公実の末娘で白河上皇の養女に出され、のちその孫の鳥羽天皇の中宮となって、帝との間に五男二女、七人の皇子(みこ)皇女(ひめみこ)を儲けている。彼の一大乱、保元の乱の誘い水となった女性である。史家によっては悪女とも、また不貞の君とも評されがちだが、果たして眼前に畏む佐藤義清こと後の西行法師が、ああまで傾倒した史実を踏まえれば、強ちそれを鵜呑みには出来ず、真実は必ずや中身のあった女性と思われ、むしろ彼女を巡っての白河・鳥羽による(即ち祖父と孫による)欲念と面子の争い、その犠牲者と見るべきだろう。人形のごとき美(は)しき女(め)の童(わらわ)、引いては成長して後の美貌をも見込まれて、世の覇王白河に溺愛されながら育った璋子は、いわば悲しみを知らない「幸福の王子」のようであり、のみならず、その‘養父’白河によって性愛をも全き自然のうちに摺り込まれた身であれば、その妖艶のほどは、男たちにとって抜き差しならぬものとなっていたのである。
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