阿漕の浦奇談
それほどの彼女ではあっても年令ゆえの翳りはやはり否めず、鳥羽上皇に接近を図る藤原北家の家成が送った若き得子(なりこ)に、今は完全に院の寵愛を奪われていた。自信強ければ失意もまた半端ならずであり、我血肉となっていた院始め男たちからの愛を失することは、文字通り自らの命を否定されるに等しかった。単に寵愛争いに敗れたというだけでは済まない、さぞやの無念がそこにはあったのである。 
「ほほほ、知りませぬ。さだめし義清殿の感性強きがゆえでございましょう」阿漕の浦など知らぬ、誰ぞ手引きしたると言いた気な、後の西行法師に伍する、和歌の名手たる待賢門院堀河の返事であった。まして義清に開陳など出来ようはずもない、ただうつむくばかりである。「賢き者かな。いま宮中の女房たちの間ではやっている、歌を詠むために恋をするという、それに似たそなたの出家ではないのか?出家とは名ばかりで、実体は憂き世を逃れて、歌詠みと遊行三昧に明け暮れたという、あの能因法師を真似るだけではないのか。和歌の名人たるそなたならば、考えつきそうなことよのう」と察しのいい、おのが鋭いところを見せては義清を驚かす璋子。まるで母の前で嘘がばれたような面持ちの義清は一言もない。その様子を見取りながら璋子は「数寄者(すきもの:和歌を詠んで遊び暮らす風流な人間)め」と、こんどからかうようだった声音を一変させてさらにひとことを付け足した。言葉ばかりは揶揄いのままだが、そこにははしなくも息子に去られる母親のごとき、あるいは夫に裏の衣を見せられた(=出家を宣せられた)妻のごとき、万端やるかたない、実に悲しげで、寂しげな想いが溢れていた。たちまち義清は「宮様…」と思わず絶句し、込み上げて来るものを必死にこらえる風となる。その様子に堀河が控えの間に通じる襖へ目を遣り、心ならずも義清へ声づくりをして見せる。お付きの女房たちが襖ひとつ向こうの部屋でひかえる前での、真情の吐露を恐れてのことだが、璋子はむしろそれを待っているかのようだ。「仔細ない、義清?…(申せ)」と暫し待つがついに義清は無言のまま。璋子はやるせなげにため息をひとつ吐いて「堀河、硯と紙をこれへ」と所望し「御簾を上げよ」とも命ずる。主の意を悟った堀河が委細ためらわず仰せの通りにすると、上着打ち衣等十二単を地味な色に抑えた璋子の全身が現れた。義清の出家に合わせたとも思うその姿は四十過ぎとは云えなお美しく、伏し目の義清の視線を捉えて離さない。彼の和泉式部の一首「(牛車の中から袖だけを)飾さじと誰か思はむ…」どころか掟破りの(?)全身露出だった。
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