流転王女と放浪皇子 聖女エミリアの物語
 そこはどこまでも広かった。

 青空の下に広がる小麦畑は緑豊かで、ときおり吹く風にさざ波のように揺れている。

 小鳥のさえずりが響く中を、馬はのそのそと歩んでいく。

 振り向くと、ナポレモの街が遠くなっていく。

 不思議と感傷はわいてこなかった。

 生まれたときからずっと暮らしてきた街。

 初めて外の世界に触れた今、そこは自分を閉じ込めていた檻のようなものだったのではないかとさえ思えてくる。

 母上様や兄たちの思い出の残る街ではあったが、今はもう誰もいなくなって、後ろ髪を引くものは何もないのだった。

 かといって、初めて見る外の世界の景色にもすぐに飽きてしまった。

 一面の小麦畑はアマトラニ王国の豊かさを象徴していたが、どこまでも同じ風景が続くとありがたみはなくなってしまう。

 馬の歩みは相変わらず遅い。

 かたわらを歩くエリッヒの歩調は軍人らしく規則正しく乱れることはない。

 鞍に荷物の入った袋がぶら下がっている。

 エミリアはエリッヒに声をかけた。

「この袋は何ですの?」

「鍋、水筒、火打ち石とか身の回りのものだ」

「わたくしの足に当たります」

「じゃあ、反対側に下げてくれ」

 背中を向いて上半身がぐらりと揺れる。

 エリッヒがあきれたように笑う。

「またかよ。落ちるなよ」

「大丈夫です」

 そうかい、と前を向きながらエリッヒが話を続けた。

「あんた、生まれた街を去っても悲しそうじゃないな」

「ええ、わたくしも不思議です。あまり悲しくありません」

 振り向くと、なだらかな丘の稜線の向こうに、ナポレモの街がもう少しで見えなくなるところだった。

 何も感慨がわいてこない。

 家族はみないなくなってしまった。

 愛する者も去ってしまった。

 父王の急死ですらあまり痛切ではなかった。

 あれだけ人生に絶望し、酒浸りになっていたのなら、どちらにしろ長くはなかっただろう。

 父も王位に未練などなかったのではないだろうか。

 今は天国でお母様や兄上達と仲良く暮らしているのではないだろうか。

 そして、同じように、今の自分の居場所は城ではない。

 この馬の背なのだ。

 馬が揺れる。

 鞍をつかんで再び顔を上げたとき、もうすでに街は見えなくなっていた。

 前方から完全武装の騎兵隊がやってきて、街の方へ駆けていく。

 土煙が上がって、エミリアは手でほこりを払った。

「えらい騒ぎだな」とエリッヒがぽつりとつぶやいた。「街の噂だが、昨夜囚人が逃げ出したらしい。身内が手引きしたんじゃないかって言ってたな」

 シュライファーのことだろう。

 ナヴェル伯父はうまくやってくれたようだ。

「そうですか」

 他人に話してよい事ではないので、興味のなさそうに適当な返事をしてごまかすしかなかった。

 エリッヒもそれ以上話を広げようとはせず、淡々と馬の綱を引いて歩いていくだけだった。

 それっきり会話が途切れてしまって、エミリアは何か話題がないか考えてみたが、相手との共通点が見つからずに、黙り込むしかなかった。


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