月の記憶、風と大地
体の繋がりなどなくとも維持出来ている夫婦も、たくさんいると思う。
むしろこちらが大半だと思うが自分たちは乗り越えられなかったのだ。
病める時も健やかなる時も一緒にいますか、と誓い合った結婚式とはなんだったのだろう。
こんなに簡単に壊れて落ちていくものなのだと、弥生は表情を暗くする。
いつもの弥生の悪い思考だ。
沈黙が流れ弥生は違う話題を振る。
「ところで津田さんは、穣くんのために転職されたそうですね。後台さんから訊きました」
夜の公園を独り占めで遊ぶ息子を、津田の瞳が眺め頷く。
「前の仕事は給料は良かったんですが、出張や接待が多くて。会社の育児制度も使いましたが結局、今の仕事に変えました」
穣は滑り台を滑っては階段を登り、また滑るを繰り返している。
「仕事を変えたこと、おれは後悔していません」
津田の瞳が息子を見守る。
「第二の人生を始められましたからね。与えてくれた穣には感謝しています。人生が彩られましたよ。会社も融通を利かせてくれますし」
弥生は笑顔を浮かべ目を細める。
素直に津田が羨ましく思った。
と、同時に津田の奥方、穣の母親がどんな人物だったのか気になった。
弥生の疑問が伝わったのか津田が口を開く。
「穣の母親はいわゆるエリートでした。仕事がなんでもできる人で。……おれとは同期でした」
毎日の育児に仕事で脳内から遠ざかっていた穣の母親のことを、津田は久しぶりに思い出していた。
六年前の秋。
当時、恋人であった女性と同棲していたマンションの一室である。
「こんなはずじゃなかった」
女が津田を睨んでいた。
細身でしなやかな肢体にシャツとパンツを身につけている。
はっきりとした顔立ちが穣に似ている美女だが、やや顔色が悪いのは悪阻が始まっているからだろうか。
「あなたと寝たのは、次のプロジェクトリーダーになると思っていたからよ。私が補佐をやりたかった」
この頃の津田は大手総合商社で商社営業マンとして勤務しており、海外へ新事業を売り込みたいメーカー側から依頼があり、その為のチームが結成された。
思惑通り当時の津田がリーダー選出され、女もメンバーに選ばれた。
リーダーの津田と公私共に更なるキャリアを築くはずであったのだが、予想外の事が起きた。
彼女の妊娠が発覚したのである。
帰宅早々、捲し立てられた津田はスーツ姿のままだ。
「産休や育児休暇を取るのが、そんなに嫌なのか。だったらおれが辞めて子供をみる」
「現実的じゃないわ。あなたは男だから、わからないのよ。女が妊娠出産すると、職場の目は変わるの。あなたのせいよ!」
妊娠した原因は男である津田のせいだと云わんばかりの口調だった。
確かにエリート街道を生き抜いてきた彼女には焦りがあった。
津田は真っ直ぐに彼女を見た。
「君は自分のことばかりだな。おれは子供に対して、責任を取ると云っているんだ。妊娠は一人じゃできない」
女は一瞬、怯んだ。
津田もそうは云ったものの彼女の言い分は理解できる。
今までのようには働けなくなるし、体調によっては休む必要も出てくる。
産後も当面は育児と体の休養で仕事どころではないだろう。
全てを含め責任を取るという意味だったのだが、彼女はそれも不満だった。
「部下が私より先に上へ行くなんて、屈辱よ。私は絶対にあきらめないから」
仕事は辞めたくない、キャリアを失いたくないと泣く彼女をなだめ二人は結婚した。