月の記憶、風と大地
業務を終えた弥生が店舗を出てバス停に向かっていると、クラクションを鳴らされた。


和人だった。
路肩に車を寄せ車に乗るように促している。

勤務時間も違うし、迎えに来ることなど初めてだ。

何事かあったのかと思い弥生が助手席のドアを開け、乗り込む。

和人からの着信を弥生は気づいていない。



「津田という男は何者だ?」



助手席に弥生が乗るなり和人が訊ねる。
突然の質問に弥生は返答するまでに、少しの間を置いた。



「……働き先の店長ですが」
「なぜ、おまえを名前で呼ぶ」
「お店のスタッフ全員、私をそう呼んでいるの」



車を発進させた和人は運転中であったため、正面を向いたままだ。



「だがそう呼び始めたのは、あの男じゃないのか」


なぜそんなことを訊くのか。
弥生は頷いたが、夫の考えていることがわからなかった。

しばらくして信号が赤になり車は停車する。



「おまえはおれの妻だ、弥生。忘れるな」



苛立ちを抑えきれない口調だった。



「職歴は店舗だけか?あの男は」
「前は商社営業マンだったらしいけど……」
「なるほど」



信号が変わり再び自動車は走り出す。



「……津田さんと何かあったの?」



弥生は助手席から夫を見つめる。

バッグの中のスマートホンが着信ありのランプを点滅させている。
この時に初めて、夫からの着信に気づいた。

津田が夫の勤める会社に赴いた事は知っている。

心配げな妻の声に和人は余裕を取り戻し、口元に笑みを浮かべた。



「何もない、おまえを褒めていたぞ。それと、おれの部下に欲しい。そう思っただけだ」



和人は運転しながら口を開いた。


和人が弥生と体のコミュニケーションを取らなくなったのは、弥生を想っての事だ。

子宮手術の後、体を気遣うあまり触れなくなり機会を失ってしまった。

弥生に冷めたわけではない。

第一それとこれとは、和人の中では全くの別問題であったのだ。

しかし弥生とて人の心を読み取れる超能力者ではない。
妻とはいえ、そこまで夫を理解できていない。


浮気しても妻を愛しているという男を受け入れろというのも、女には難しい。

内にこもって考えてしまう弥生には特にそうだ。
そして今は弥生自身、津田に対して後ろめたい気持ちがある。


「津田さんと、ケンカでもしたのかと思ったわ」


弥生は安堵したように、ため息をついた。

弥生は働きに出るようになって以前より、確実に美しくなっている。
服装や化粧に気を使っていることもあるのだろうが、何よりも生命力に溢れているのだ。

内側から輝いている。


「仕事は楽しいか、弥生」


こんな風に会話したのは久しぶりだった。

あの浮気現場を見られて以来、まともに会話をしたことがない。


「ええ、楽しいわ。怒られたり間違ったりで、迷惑をかけてしまうこともあるけれど」


弥生も特に毒を含ませることもなく、言葉を返す。

当たり前だった夫婦の会話。

同じ家で暮らしているのに。
毎日、お互いの気配を感じているというのに。


「飯でもどうだ。疲れただろう」
「いいわね。高いものじゃなければ、ごちそうするわ」


和人は微笑する。



「それもいいが今回は夫の、おれの男としての甲斐性を見させてくれ」


これからも変わらない。

和人は弥生を妻として手離すつもりはなく、自分の意思を強く持っていれば杞憂に終わる。

そう信じていた。












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